無荒史談15-百人一首の帝-後鳥羽院(下) ― 2007/11/21 18:55
上で述べたように後鳥羽上皇は多芸多才のお方であったが、政治・経済の面で欠けているお方でもあった。
多芸多才であるということは莫大な費用を必要とすることでもある。先代までに蓄えられた荘園の上がりでは不十分であったのかも知れない。上皇の院政時代には、賣官と見られる役職の増加が見られる。慈円はダンピングの存在さえ指摘して非難している。
賣官がうまく行かない原因の一つとして、頼朝にによるご家人の仕官に対する規制がある。これはその後北条政権にも受け継がれており、北条家の当主も低い官位にとどまり、ご家人が高い官位に就くことはなかった。つまり当時の新興階級である武家層が賣官に応ずることはなかった。
後鳥羽上皇は幕府が自分の意にならないことに不満を持っておられた。
奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人にしらせむ
これは明らかに反幕府の歌である。この歌に対して実朝の歌
山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心我あらめやも
がその返答であろう。
上皇が反幕府の意志があることは公然の秘密であったのではないか。主要貴族や高僧慈円(関白の弟)はそれを察知していたと思われる。この人々の中には幕府に親しい人もいたので、幕府も上皇の意向を察していたと見るのが当然であろう。
ただ、上皇は主要貴族を除外し、イエスマンを中心とした近臣を重用し、倒幕の計画を進めていった。彼らの中には時勢を判断できる人材は殆どいなかった。
上皇はついに北条義時征討の院宣を発した。しかし、その結果は無惨なものであった。幕府軍は19万の兵力を即時に上京させて来た。1月あまりで勝敗は決し、上皇は隠岐に配流の身となり、そこで崩御された。-19万の大軍をこのような短期で行動できたのは常識はずれとも見られる。幕府は事前に予想していたのでは?-
我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
後鳥羽上皇が配所で詠まれた御製である。
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