無荒史談16-百人一首の帝-順徳院 ― 2007/11/23 19:00
百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
小倉百人一首の最後に掲げられている歌である。(ちなみに最初は天智天皇の「秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ」-この歌は天智天皇のところで述べたように御製かどうかはっきりしない-である)
順徳天皇は、兄土御門天皇が父後鳥羽上皇に直言するタイプであったのと異なり、イエスマンであったらしい。その所為か兄よりも後鳥羽上皇に気に入られている。
彗星の出現を機に、後鳥羽上皇は土御門天皇に迫って皇位を弟順徳天皇に譲ることを強制した。土御門天皇は、直言するが、父には逆らえない性格であったので、素直に譲位している。
順徳天皇の在位期間は全て後鳥羽上皇の院政であった。順徳天皇自身の御事績は見つけにくい。
順徳天皇は、承久の乱を目前にして子の仲恭天皇に譲位し、事件に専念しようとされている。
順徳上皇は後鳥羽上皇の倒幕計画に積極的に参加し、事破れた後は佐渡に配流の身となり、配所で崩御された。御子孫は皇位継承の動きがあったにも拘わらず、ついに皇位を継承されることはなかった。
百人一首の帝篇終わり
最近のコメント