無荒史談8-百人一首の帝-持統天皇2007/11/07 18:54

持統天皇は万葉時代の歌人として名高い。 天皇の御製 「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天香具山」 これが百人一首の歌であるが、万葉集の本歌は 「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天香具山」 である。

このように古い歌は語り継がれているうちに変化することが多い。この歌の場合、本歌は万葉時代の表現であり、百人一首の歌は新古今調である。無荒老は本歌の方が好きである。

持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后である。天武天皇には10人もの后があり、そのうちの4人は天智天皇の皇女である。これだけの競争相手の中から正妻の座を勝ち取ったのであるから女性としての魅力も非常にあったと思われる。

持統天皇は自らの子孫が皇位を継承する為にいろいろな手を尽くした。自分の子供の皇太子の邪魔になりそうな継子を殺したりしている。自分で帝位に就いたのもその一環である。

一方で大化の改新の仕上げにも実績を残している。夫の天武天皇がやり残した永遠の都づくりとしての藤原京の造営などの実績がある。

この後に続く女帝時代の幕開けにふさわしいスーパーレディである。

身体検査2007/11/08 19:12

最近身体検査という言葉は、政治家の身辺の清潔さを調べることに使われている。ところが最近の状況から見ると身体検査は各官庁の次官クラスにも必要になってきたようだ。

これは大事なことである。次官級に昇格する前に官僚の身体検査をしておく必要が出てきたようだ。

官僚たるもの次官ともなればそれなりの清潔さを国民が要求するのは当然であろう。それに合格しないのであれば、天下りなどは出来ないし、次官級の職に昇格することも不可能である。

身辺の清潔でない官僚は、さっさと官界から去るべきであり、そんな誘惑をした企業が面倒を見ればよい。勿論このような企業に便宜を図れば汚職になるというものだ。

官僚の汚職の摘発にはマスコミも又重要な役割を持つべきであろう。

無荒史談9-百人一首の帝-陽成院2007/11/09 19:56

筑波嶺の峰より落つる男女の川恋ぞ積もりて淵となりぬる

陽成院は9才で即位している。年少の為叔父に当たる藤原基経が摂政となった。藤原氏が理想としていた政権取得の典型的な例である。

ところが、陽成天皇は手の付けられない乱暴者であったらしい。日本書紀にある武烈天皇の残虐に対比されるほどであったから、困りものであったらしい。

そのうちに近臣を殺すという事件を起こしてしまった。これで基経も始末に困り17才で退位させた。古い歴史教科書ではこれは藤原氏のの専横の一例になっていたが、現実は基経の方がしっかりした状況判断をしていた。この結果、基経と血縁関係のない光孝天皇が即位されることになった。

陽成院は退位後はおとなしくなり、文化面で才能を伸ばし、81才まで生きていた。皇子、皇女もいるが、皆退位後の子供である。百人一首の歌人元良親王は院の第一皇子である。

わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢わんとぞ思うふ

美しい国ニッポン2007/11/10 18:53

美しい国ニッポンという言葉は過去のものか。安倍前首相の消息がなくなってから時間が経っている。今どうしておられるかマスコミの報道もない。人の噂も75日か。(退陣からまもなく75日)

美しい国を目指すと言うことは、現在が美しくない国であることと捉えることも出来る。事実最近の報道では美しくない事件が多すぎる。これだけ見れば安倍前首相は現実を把握していたか?

仮に安倍首相がこの事態を捉えて美しくないものをなくす方向の政治をしていたら、参院選挙の惨敗はなかったであろう。しかし、その行動は美しくないものを意固地かつ変に擁護するように見られた。これでは国民は失望するだけである。

ところで人民中国は汚職に悩まされ、最近汚職対策を掲げない年次報告はない。それ程悩んでいるのである。しかも、効果が十分に上がっていないことを自ら認めている。日本も汚職対策や不当表示に対してもっと厳密に処置することを政策に掲げて実行したらどうだろうか。

美しい国は政官民のそれぞれがトップを先頭に率先して実行すべき課題である。安倍前首相もこのような考えに立っていたらと思う。

美しくない人物はさっさと舞台から去るべきであろう。

無荒史談10-百人一首の帝-光孝天皇2007/11/12 19:08

君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ

天皇がまだ一皇族であった時のお歌である。

光孝天皇は青壮年期には天皇家の傍系におられ、自分が天皇になるとは全く思われていなかった。そのため皇族は自分一代で終わるようにし、所生の皇子、皇女は全て臣籍に降下してしまっていた。

前回に述べた陽成天皇の突然の退位で、突如として天皇になることとなった。時に55才。政務は擁立した藤原基経にゆだねることとなった。

天皇は崩御直前まで皇太子を立てなかった。死の床で基経に促されて、臣籍にあった宇多天皇を皇族に復帰させて皇太子とした。

在位中の歌で古今集に次の御製がある。場所は巻7で347番、君が代の本歌とされる歌は343番である。

かくしつつとにもかくにも長らえて君が八千代にあうぞ嬉しき

この歌は僧正遍照に長寿を祝って賜ったものである。僧正遍照は天皇の父仁明天皇の近臣であった。

この歌の解釈は「君が代」が作られた時代の解釈のあり方に通ずる。現在の文部科学省の見解は古今集時代の「君が代」の意味と異なることを示している。