生活保護費の減額2007/12/01 18:55

有識者会議なるものが生活保護費の減額を答申するそうな。

ワーキングプアよりも生活保護費のほうが実入りが良いという事実、これは真実であろう。

それだから生活保護費を減額してよいというのは理論が飛躍しすぎる。

格差社会をなくすというのはどの政党も言っていることだが、有識者はこのことをご存じないようだ。この答申は格差社会を助長するだけのものである。

提言の内容は、ワーキングプア対策をしっかりして、生活保護世帯よりも高い収入があるようにせよと言うべきではないのか。

無荒老が恐れるのは、格差社会がファシズムなど過激な政治の温床となった事例が世界中に多数在ることである。日本の軍閥の跋扈もその中に含められるのではないか。

格差の増大につながる施策は実行の前にフィルターに掛ねばならぬ。

無荒史談20-百人一首の摂政-藤原忠通(上)2007/12/03 19:26

わたの原漕ぎ出でてみれば久方の雲居にまがう沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)

法性寺は藤原忠通が政界を引退し出家した後に住まいとした寺である。忠通は保元の乱や平治の乱の際に権力を持っていた関白である。しかも、院政期では特筆すべき影響力を発揮した。ただ、その生涯は波瀾万丈といっても過言ではない。

1.父の過失で摂関の地位に就く。これが親子の断絶につながる。

藤原氏は道長の後、摂関の人材が急速に小型化し、後三条天皇の英明もあって政治の主導権を天皇家に奪われることになった。摂政、関白は引き続いて任命されているが、その権力は往年と様変わりしていた。

忠通の父忠実は摂関家の当主としての器量に欠けるものがあったようだ。次のような事件を起こして関白を首にされ、謹慎の身となった。

以前に忠実の娘を鳥羽天皇に入内せよと白河法皇から頼まれたが、言を左右にして承知しなかった。

ところがその後、鳥羽天皇が同じ娘を入内せよと言ったら忠実はあっさりと承知した。

これで白河法皇は怒り、忠実を首にして代わりを探したが適任者が見つからず、後任は子供の忠通に落ち着いた。

忠通は父に礼を尽くして、一日だけ謹慎を解いてもらって藤原氏の慣例に基づいて関白を父から譲り受けた。

この時、白河法皇は、待賢門院の嫁ぎ先として忠通を考えていたが、あいにく占いが悪かったので延期していた。

白河法皇は、待賢門院を忠実の娘の代わりに鳥羽天皇に入内させた。その後生まれたのが崇徳天皇である。

忠通は次の崇徳天皇の時に摂政を務めている。

忠通は、父には礼儀を尽くしたが、政治に関しては自分の判断で行い、父の判断を仰いでいない。

白河法皇崩御の後は、鳥羽上皇の院政が始まり、上皇が白河法皇に対する反感もあって、忠実は謹慎を解かれた。しかし、関白の再任はないので、摂関の座は忠通のままであった。

このように保元の乱の原因の一つである。皇室と摂関家それぞれの内部対立が始まった。

以下次の回に述べる。

それでもブッシュ大統領を信頼しますか。2007/12/04 18:55

米国政府の公式発表で、イランの核開発が中断したままであるとの見解が示されると共に、ブッシュ大統領が存在しないイランの核爆弾製造を脅威として国民に宣伝していたということが示された。

歴史的な教訓として、内政的に問題を抱えている国家の元首は、対外的緊張を醸し出すことによって、自己の保身を図るという原則がある。ブッシュ大統領もこれに該当するのではないか。米国国民がこの前の選挙で民主党を支持したのはその問題点を見抜いたからではないか。

日本の政治家-特に自民党-は、そろそろポストブッシュについて考える時期ではないか。特にブッシュ氏の偏狭的な面は支持すべきではないだろう。ブッシュ氏に盲従することが日米協調では無いだろう。

米国がおかしな行動を取っていると思えば、同調を拒否することが真の日米同盟ではないのですか。この点でフランスのシラク前大統領の態度は立派だと思うのですが。

無荒史談21-百人一首の摂政-藤原忠通(中)2007/12/05 20:13

忠通の弟に頼長という人がいる。彼は、学識は人に優れていた。しかし、人格に於いて欠けるところがあった。人をやりこめるのが徹底しており、悪左府(手に負えない左大臣)という異名を取っている。但し、文学的な才能は全く欠けていたようだ。

忠通の父忠実は、子の頼長を溺愛した。そして忠通に迫って関白を譲るように伝えた。ところが忠通は父の願いを握りつぶした。その理由を鳥羽法皇から聞かれた時、次のように答えている。

頼長はこのような欠陥があり、彼に政権を任すと世間に動乱が起こる。だから彼に政権をまかせられない。「父に考ならんとすれば君に不忠となり、君に忠ならんとすれば父に不幸となる」有名な平重盛の言と同じであるが、忠通の方が前である。

忠実はこのことを知ってかんかんに怒った。忠通の家長の権限である家宝をを武士(源為義の子頼賢)使って取り上げた。また、頼長を関白と同等の権限である内覧とした。

しばらくして鳥羽法皇は頼長の実力が忠通の言った通りであることを悟り、疎んずるようになった。崇徳天皇が譲位し、近衛天皇が即位した際、慣例では全ての高官は辞表を提出し、「天皇これを許さず」で再任されるのであるが、頼長だけは再任されなかった。 (これには例外がある。高齢等で引退する場合は、再任されず人事異動がある。)

近衛天皇が子供がないまま崩御されたので、次の天皇を誰にするかが問題となった。この時、鳥羽法皇は忠通のみと相談し、後白河天皇を即位させるこことした。この為、崇徳上皇は自分が院政をするという道を絶たれることとなった。

この頃、源氏の本家でも内紛が起きた。この内容は明らかにされていないが、当時は常識であったらしい。為義と長男の義朝との間が険悪になった。あるいは、義朝と次の弟である義賢、頼賢とが険悪な仲となり、義賢は頼朝の長男義平に討たれ、頼賢は義朝に朝敵の名目で追いかけられている。この二人を為義は愛していた。

このようにして、保元の乱の対立図式である皇室、摂関家、源氏の関係が出来上がっていく。

防衛省改革2007/12/06 18:49

防衛省改革のための会議のメンバーを見て驚いた。

座長の一人を除き全てが防衛省(庁)の関係者ではないか。

これで改革が出来ると思うのは大間違いである。

会議のメンバーは半数以上が外部というのが常識ではないか。

改革には期待しないのがよいだろう。