無荒史談20-百人一首の摂政-藤原忠通(上)2007/12/03 19:26

わたの原漕ぎ出でてみれば久方の雲居にまがう沖つ白波(法性寺入道前関白太政大臣)

法性寺は藤原忠通が政界を引退し出家した後に住まいとした寺である。忠通は保元の乱や平治の乱の際に権力を持っていた関白である。しかも、院政期では特筆すべき影響力を発揮した。ただ、その生涯は波瀾万丈といっても過言ではない。

1.父の過失で摂関の地位に就く。これが親子の断絶につながる。

藤原氏は道長の後、摂関の人材が急速に小型化し、後三条天皇の英明もあって政治の主導権を天皇家に奪われることになった。摂政、関白は引き続いて任命されているが、その権力は往年と様変わりしていた。

忠通の父忠実は摂関家の当主としての器量に欠けるものがあったようだ。次のような事件を起こして関白を首にされ、謹慎の身となった。

以前に忠実の娘を鳥羽天皇に入内せよと白河法皇から頼まれたが、言を左右にして承知しなかった。

ところがその後、鳥羽天皇が同じ娘を入内せよと言ったら忠実はあっさりと承知した。

これで白河法皇は怒り、忠実を首にして代わりを探したが適任者が見つからず、後任は子供の忠通に落ち着いた。

忠通は父に礼を尽くして、一日だけ謹慎を解いてもらって藤原氏の慣例に基づいて関白を父から譲り受けた。

この時、白河法皇は、待賢門院の嫁ぎ先として忠通を考えていたが、あいにく占いが悪かったので延期していた。

白河法皇は、待賢門院を忠実の娘の代わりに鳥羽天皇に入内させた。その後生まれたのが崇徳天皇である。

忠通は次の崇徳天皇の時に摂政を務めている。

忠通は、父には礼儀を尽くしたが、政治に関しては自分の判断で行い、父の判断を仰いでいない。

白河法皇崩御の後は、鳥羽上皇の院政が始まり、上皇が白河法皇に対する反感もあって、忠実は謹慎を解かれた。しかし、関白の再任はないので、摂関の座は忠通のままであった。

このように保元の乱の原因の一つである。皇室と摂関家それぞれの内部対立が始まった。

以下次の回に述べる。

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