無荒史談22-百人一首の摂政-藤原忠通(下) ― 2007/12/07 19:35
保元の乱は鳥羽法皇の崩御と共に始まった。
武力に関しては、後白河天皇の方に分があった。天皇方には当時の武士の有力者である源義朝、平清盛、源頼政が集まり、崇徳上皇との関係があった清盛の弟頼盛も一族の団結を考えて天皇方に参加した。上皇方には僅かに源為義のみが有力者として参加しただけである。彼は天皇方から上皇方に鞍替えした唯一の武将であるが、その家臣は殆どが子供の義朝の下に参じている。
両陣営は、それぞれが作戦会議を開いている。上皇方では頼長が出しゃばって為義の案を退け、無為に時間を費やした。天皇方では、忠通が義朝の案に最終的に決裁を与え、義朝をはじめとする諸将は出陣した。
勝敗は多勢を誇る天皇方が圧倒的な勝利を収め、頼長は武装していた為、相手の狙撃にあって深手を負い、まもなく死亡した。
忠通はこの後二条天皇の即位に際し、関白を辞し子供の基実に譲っている。
保元の乱の戦後処理のもつれもあり、平治の乱へ結びついた。義朝と結んだ藤原信頼は無能さを暴露し、政界の支持を失った。特に二条天皇を簡単に清盛の陣営に移されたのは失敗であった。これを機に忠通を始め多くの貴族達は清盛の陣営に参加した。また、後白河上皇も清盛側に行幸になった。
平治の乱は攻守所を変え、清盛方の圧勝に終わった。
平治の乱の後、二条天皇の近臣達は、天皇の親政の為の準備を進め、後白河上皇の行動を制限し始めた。この時、後白河上皇は、清盛と組んでこの近臣達を追放するというクーデターを実行した。この時、忠通が上皇が清盛に指示する席に同席していることが解っている。
忠通はこの後政界から完全に引退したようだ。
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