無荒史談25-百人一首の高僧-僧正遍照2007/12/15 19:30

天津風雲の通い路吹きとめよ乙女の姿しばし留めん(僧正遍照)

この歌は他の僧侶の歌と違い坊主臭さがない。その筈である。古今集には「良岑宗貞」の歌となっている。つまり彼が出家する以前の歌である。古今集には僧正遍照と良岑宗貞と区別して掲載されている。つまり、百人一首の読み札では、遍照の名前と僧侶姿の代わりに良岑宗貞という殿上人の名前と絵が描かれているべきである。江戸時代の知ったかぶりが、この歌を坊主の作としては不謹慎だといって笑われたという逸話も残っている。

彼は、桓武天皇系統-桓武天皇の孫-の賜姓貴族である。仁明天皇の近臣として仕えている。天皇の崩御に当たり悲しみのあまり出家した。古今集にはその時の気持ちを示す歌が残されている。

みな人は花の衣になりにけり苔の袂よ乾きだにせよ

彼は比叡山に入って落飾した。その後円仁、円珍という高僧の指導を受け、宗教界でも出世し、僧正の位になった。陽成天皇、光孝天皇の護持僧を務め、僧正の位を賜っている。

彼の父良岑安世は、比叡山が大乗戒壇を設立するに際し、朝廷に於いて協力した人物として知られる。円仁、円珍が厚遇したのも頷ける。 また、光孝天皇は、仁明天皇の皇子であり、近臣であった遍照と親しかったと考えられ、通常一代限りであった護持僧を前代から引き続いたのもその現れと思われる。

光孝天皇は遍照の七十の長寿を祝い次の歌を詠んである。

かくしつつとにもかくにも永らえて君が八千代にあふよしもがな

なお、彼が在俗の時に儲けた息子が素性法師である。彼は宗教界では大成しなかったが、歌人としてその名を残している。

今こむと言いしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな