無荒史談30-百人一首の高僧-前大僧正慈円(四) ― 2007/12/28 18:41
乱世を目の当たりにしたその生涯
慈円は保元の乱から承久の乱までの激動期を生きた。というもののこれくらいの期間に激動があった事例に事欠かない。戦国時代を終わらせた時期には、桶狭間の合戦から大阪夏の陣まで、現代では関東大震災から昭和の終わりまで、世の中がひっくり返る様なことが6~70年の間に起きている。このような例は日本史にも多数ある。
慈円の著愚管抄は、この激動の時期に焦点を合わせている。神武天皇以前は「神代のことは知らず」の一言で済ましているほどである。全7巻の内の3巻を「現代史」にあてている。1巻は自己の哲学的なものを述べている。又2巻は皇帝年代記である。つまり彼が過去のものと考えていた藤原道長以前の事件には1巻だけを与えているだけである。この点から慈円の生涯は自己の記録である愚管抄を基に考え、その他の文献を参考に挙げるのが良いであろう。
慈円が入山した時は、天台座主の座を巡り、武力抗争があったと記されている。千日入堂などまじめに修行をすることさえ妨げられかねない状況にあった。その中で彼は叡山での出世をすべく運命付けられたのである。摂関家の出であることは有利ではあったが、有能でないと出来ないこともある。承久の乱に際して未成年の法親王を天台座主に後鳥羽上皇が任命して、悪しき慣例を作ったのとは訳が違う。-この真似をしたのが後醍醐天皇で、大塔宮護良親王がその対象である。-
慈円は実力を発揮し着々と出世した。38才で天台座主となった。この後中央政界で政変が起こり、彼の兄の藤原兼実が失脚することとなり彼も天台座主を辞退した。しかし、程なく返り咲くこととなる。
2度目の天台座主は、1年ほどで辞退している。天台座主になるよりも隠然たる勢力者であることを選んだのかも知れない。この辺の事情は不明である。
3度目は明らかに後鳥羽上皇の倒幕の意志に関係している。上皇は慈円に影響力に期待したのではないか。慈円は倒幕に反対であり、後任を養成して1年で辞退した。ところが後任者が僅か8ヶ月で死去したので又後任を作る為に4度目の就任をした。これも1年で辞退している。天台座主では倒幕に反対する手段が難しかったのかも知れない。
慈円は承久の乱を予防する為に愚管抄を執筆したと言われている。しかし、後鳥羽上皇は聞く耳を持たなかった。そして計画は無惨な結果となった。事やぶれた後、後鳥羽上皇は比叡山の僧兵に頼ろうとしたが、比叡山ではこれをすげなく断っている。あるいは慈円の影響か。
慈円は叡山の学問の興隆にも心を配っている。源頼朝と掛け合って、教育の資金として荘園の収入を提供して貰うと言うこともやっている。唯の歌の上手な天台座主ではなかった。
慈円及び百人一首の高僧達終わり
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