無荒史談73-院政の上皇-鳥羽法皇2008/04/21 19:37

鳥羽法皇は天皇としての親政期間がない。白河法皇の崩御後最年長の上皇として自然に権力の座に就かれた。先代の後を受けて、院政のシステムの完成に力を注がれた。

鳥羽法皇の時代は、先代と特に変わった様なことはない。しかし、その中から保元の乱に結びつく人間関係が露わになってくる。

1-崇徳上皇に対する強烈ないじめ――崇徳上皇の生母は待賢門院である。鳥羽法皇は待賢門院と祖父の白河天皇の中を怪しみ、崇徳上皇が実は白河法皇の子と考えていた。自分の子ではないとの認識から、崇徳上皇に対して強烈ないじめをしている。一々記載しないが、崇徳上皇の子孫が皇位に就かぬ様に策略している。これは保元の乱の皇室側の要因となっている。

2-藤原忠実・頼長に対して藤原忠通の重用――摂政藤原忠実は白河法皇の逆鱗に触れてその地位を失った。後任はなんと子供の藤原忠通であった。これが親子関係に微妙な隙を生じた。忠実は末子の頼長を愛し、忠通に摂関職を譲る様に持ちかけた。ところが忠通は頼長の性格を知っており、これが良くないとして握りつぶした。このことが親子関係の悪化に拍車を掛け、忠実は忠通から藤原氏の長者の地位を取り上げ頼長に与えた。この時に源氏の武力を用いて強引なことをしている。しかし、鳥羽法皇は頼長を重視せず、後白河天皇の即位に当たっては、忠通の意見のみを採り上げた。これが保元の乱の藤原氏側の要因となっている。

3-院とは関係ないが、源為義と義朝の親子喧嘩――あまり詳しいことは伝わっていないが、「愚管抄」によると当時は有名な話だったらしい。義朝は少年と言ってもよい年頃から関東に住み、義家以来の領地の回復に活動している。その中で、次弟の義賢が為義の命で北関東に勢力を作ろうとしている。当然義朝と衝突することとなり、義朝の子悪源太義平に襲撃されて戦死している。その後釜がその弟の頼賢である。義朝は追討の宣旨を取って彼を追いかけている。ところが、為義は頼賢を応援していたと見られるのである。これが保元の乱での源氏分裂の要因となっている。

法皇の崩御と共にこれらが一挙に吹き出し保元の乱が勃発した。そして、その後は武力なしに政治問題が解決されなくなったのである。