無荒史談83-清和源氏物語3-源義朝2 ― 2008/05/23 19:16
義朝が東国に源氏の勢力を回復しつつあった時の父の為義の行動は不可解である。為義は可成り無能な人物であった様で、一生官職に就くことがなかった。これは当時としては異常である。彼は摂関家特に最長老の忠実の家人であった。しかも時の藤原氏の長者は子の忠通であったのである。
義朝の異母弟である義賢、頼賢の兄弟を為義は愛していると思われる。あるいは義朝を庶子扱いにしていたとも考えられる。そうとしか思えない行動を取っているのである。
義賢を義朝が勢力を伸ばしつつあった北関東に派遣したのである。義朝は反発した。最終的には長男の義平を使って義賢を襲撃させ、敗死させた。ところが義賢の後釜が頼賢である。義朝は頼賢を追い回している。しかも朝廷を動かして行動を正当化している。この時は捕まえることは出来なかった。
当時のことに詳しい慈円の「愚管抄」には「年比この父子の中よからず子細ども事長し」とあり、当時はよく知られた親子の不仲だったようだ。これが当時は保元の乱で親子が敵味方となった原因とも言われている様だ。
同じ「愚管抄」の中で注意すべき表現がある。為義は頼賢と為朝だけを手勢に勘定しているのである。実際は義朝以外の為義の子供は全て崇徳上皇方に参戦している。しかし、その他の子供は記録の上では無視されているのである。
保元の乱での為義の発言も不可解である。彼は東国に逃げて再起を図ることを提案している。ところが頼りにすると言っている東国の武士は皆義朝の配下として後白河天皇方にいたのである(彼はそれを知っていたのだ)。また、義朝の長子義平は京都にいたとの記録がないので、東国で留守居をしていたとも考えられる。東国に逃げても敵が待っているだけである。
保元の乱は後白河天皇方の勝利に終わった。なんと為義は仲が悪かった子の義朝の所に自首しているのである。最後まで頑張ったのは1月間潜伏した為朝で彼は命を永らえたのである。
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