無荒史談134-日本仏教物語-密教化の時代 ― 2008/10/24 19:05
空海が唐より持って帰った真言密教が大歓迎された為、天台宗も負けじと密教の導入を図った。最澄は空海に文献の貸与を依頼したが、空海は修行を伴う必要があるとしてこれを拒否した。
天台宗は円仁を中国に派遣して密教を導入することとなる。円仁は遣唐使の船からの脱走という冒険をして9年間研鑽に務め、その上中国における仏教弾圧まで経験した後帰国する。ついで円珍が入唐して密教を学んだ。この二人が学んだ密教が平安時代を通じて祈祷の全盛期を迎えるのである。
円仁と円珍の弟子たちは反目し合い、円珍派は延暦寺を出て園城寺に籠もる。両寺の対立は激しさを増し、ついには天台座主は延暦寺出身でなければなれない事態となった。時々園城寺からの任命があったが、お礼に拝謁して即日辞職のケースが多い。なお、現代は天台宗と天台寺門派という形に別れている。
仏教は加持祈祷の全盛期を迎え、それに伴い寄進による寺領も増え、寺院には僧兵があふれ、仏教本来からの逸脱が始まった。良識ある高僧とされている鎌倉初期の慈円にしても、加持祈祷の名人を自称するほどであった。この頃から寺院間の対立が多くなり、武力抗争に発展する例も増えている。
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