「平清盛」-史実はこうだ-1-待賢門院2012/05/11 18:58

大河ドラマ平清盛は愚作である。史実の方が面白いと思う。そこで史実を述べてみよう。

白河天皇は賢子中宮をこよなく愛されていたが、中宮が若死にされた後に出家された。

ところがその後も女性関係を絶たれることはなく、世の批判を浴びている。

彼女たちは出家された建前上女御などに出来ず、次々に近臣に押しつけられた-これを「お古を賜る」という-平忠盛もその一人ではないかと言われ、これが清盛御落胤説に繋がった。清盛御落胤説には証拠はない。

待賢門院はどういう訳か白川法皇の養女になった。それに法皇は手を付けたのである。ところで養女であるのでそんなに身分の低い人に賜るわけにはいかなかったようだ。

まず候補になったのが藤原忠通である。ところが鳥羽天皇へ入内する女性を巡るトラブルから、父の藤原忠実が関白をクビになると言うことがおきた。その結果鳥羽天皇に入内するのが待賢門院と言うことになった。ちなみにこの事件で息子の忠通が後任となっている。

身近なところにお古を賜ったためか、その後も白川法皇と関係があったとされている。鳥羽天皇は待賢門院をかわいがり多くの子供を儲けた。しかし、第1子の崇徳天皇に関しては白川法皇の子であるという確信を生涯持っていた。

近年になってある人がこの事実を証明しようとした。つまり崇徳天皇の生まれた日とから逆算して父親がどちらか決めようというものである。その結果正常な妊娠期間であれば父親は白川法皇であると言うことになるそうだ。

鳥羽法皇は崇徳上皇を遠ざけ、臨終の席でも会おうとしなかったと言い伝えられている。