「平清盛」-史実はこうだ2-藤原頼長2012/05/13 19:06

藤原頼長は当時古今稀な秀才との評判であった。しかし、己の才を鼻にかけるあまり頑固なところがあった。また、男色に執心することも当時から定評があった。

彼の近臣は彼の男色の対象者であったと見てよい。それを赤裸々に日記に書いているのだ。男色はこの時代の流行でもあり、時に政治上の事件となることもあったのだ。例えば藤原家成とのトラブルがあるが、家成が鳥羽法皇の相手であったという話も無視できないのである。鳥羽法皇のご機嫌を損ねるのも当然と見てよい。

彼は色々なところで平気で人々をやりこめた。そして人々は彼から離れていったのである。若年の近衛天皇も彼を嫌っている。

彼を溺愛したのが父の忠実である。忠実は忠通に関白を頼長に譲るように頼んだ。しかし、忠通は返事を曖昧にし続けたのである。そこで忠実は鳥羽法皇に訊いてもらったところ、忠通の回答は、「頼長の性格では天下は乱れる。父の言う通りのすれば不忠となる、しなければ不孝となる。天を仰いで嘆息するばかりだ。」であった。その後の重盛の「忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず」のセリフとそっくりである。これに逆上した忠実が家督の没収に武力を使ったのである。

当時天皇の代替わりには臣下は全て辞表を提出するのが慣習であった。次の天皇は全部の辞表を認めずと言うことで再任したものだ。ところが近衛天皇から後白河天皇への代替わりの時、頼長だけは辞表が受理されたのである。鳥羽法皇は慣習を利用して頼長を合法的にクビにしたのである。

保元の乱は別に作成する。