「平清盛」-史実はこうだ4-爲義、義朝の不和 ― 2012/05/20 19:00
当時のことを記した愚管抄によるとこの二人の不和は世に知らぬ人なしといわれるほどであったようだ。しかも長い間のことらしい。
これは当人だけでなく累代の家臣-家人-を巻き込んだ大がかりなものであったようだ。
累代の家来である東国の武士達は全てが義朝を支持するようになった。保元の乱で義朝が東国から連れてきた武士達は誰一人爲義に味方しようとしなかっただけでなく、爲義軍に果敢に戦闘を挑んでいるのだ。
源氏累代の家臣は頼信、頼義、義家といった前九年の役、後三年の役以来の東国武者である。それが当主の為義をさしおいて子供の義朝の臣下として行動しているのである。
為義が家督相続予定の義賢を東国に派遣したのは家臣が自分よりも子供の義朝にしたがっているのを挽回しようとしたのではないか。勿論これは義朝が耐えられるものではなく、子供の義平をして討伐させたのである。
無荒老は思う。父子の対立は義賢東国派遣以前に既に決裂状態であった。しかし、東国武士の心を掴んでいた義朝の前にその企ては失敗するのである。
父子の対立は鳥羽法皇側に利用され、保元の乱での父子交戦の悲劇となる。
ちなみに義朝が築いた御家人関係は子の頼朝が受け継ぐことが出来たのである。
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