「平清盛」-史実はこうだ5-無責任な藤原忠実2012/05/27 18:55

藤原忠実という人は、摂関家の権威喪失の張本人と言ってよいだろう。

彼は父師通の急死で内覧となった。22才の若さである。官位もそう高くなかったので急いで位を上げて条件を満たし28才で関白となった。父師通が偉大であったのに比べて大幅に見劣りする関白の誕生である。

馬脚を現したのが娘の入内に関することである。白川法皇から鳥羽天皇に娘を入内したらどうかという打診があったのを断っておきながら、その後鳥羽天皇が同じ娘の入内を持ちかけられると承諾したのである。それも白川法に何の事前連絡もなしである。

白川法皇は烈火の如く怒った。鳥羽天皇に対しては対賢門院を代わりに入内させた。そして忠実の関白をクビにしたのである。

建前上天皇は関白をクビに出来るがそれまで例がなかった。ところが今回は院政の主の法皇が関白をクビにし、閉門にしたのである。

後任は息子の忠通がなった。一応関白=藤原氏の長者であるので忠通はそれなりの手順を踏んで関白に就任している。

白川法皇の崩御後は閉門が有名無実のものとなり、忠実は公然と朝廷に出入りしている。何かの席では平気で関白忠通の上座についているのだ。そして次男の頼長を溺愛し、忠通に関白を譲れと強要している。忠通が明確な回答を避けていると今度は為義などの武士を使い実力で頼長を内覧・氏の長者としたのである。

保元の乱では高齢のことでもあり現場にゆかなかった。そして崇徳上皇側の敗北しなり、瀕死の重傷の頼長が一度忠実に会いたいと面会を求めたのに非情にも面会を拒否しているのである。これは保身のためにこの乱では中立だといいたいだけのことである。

この試みは成功した。忠通の嘆願で閉門だけで済み、流罪は免れたのである。