陛下の御田植え-皇太子殿下もご一緒の方が2012/06/01 19:04

宮中行事として陛下が皇居内の田で田植えをなされた。そこには皇太子殿下の姿を見なかった。

陛下はご高齢である。このような宮中の行事には皇太子殿下もご一緒されともに作業されるのがよいのではないかと思われる。というよりも皇太子殿下の方が多く作業されるのがよいと思うが。

宮内庁も陛下のご高齢をもむっと考慮して可能な限り宮中行事や公務を皇太子殿下にゆだねることを考えて貰いたいと思う。

外交関連のものは別として国内のことは皇太子殿下が代行されても国民は意義を申さないのではないか。

健康寿命の延長-健康者の調査も重要だ-PPKを活用せよ2012/06/02 18:42

厚労省から健康寿命の調査の話が出た。人生1割強は寝て過ごすとのことである。

ところが無荒老の周辺には矍鑠たる老人ばかりでとんと寝たきりにおめにかからない。しかし、これは寝たきりの人には殆ど接しないせいだろう。

無荒老の周囲をもう一度見直してみると、健康寿命は人生の寿命よりもはるかにバラツキが大きいと言うことに気付く。

厚労省は寝たきりなど要介護となる原因に目を向けているようだが、寝たきりにならなかった人のデータをしっかり把握して活用すべきではないか。

これは前に発言したPPK(ピンピンコロリ)学会の提案に通じるものだ。誰しも寝たきりになりたくはないと思う。どうすればPPKとなって往生できるかを研究することは大事であり、それは健康寿命の延長に繋がるものではないか。

関係部署は発想の転換をして欲しい。

「平清盛」-史実はこうだ6-保元の乱2012/06/03 18:48

保元の乱の話をする時「保元物語」が話題となる。しかし、これは軍記物という文学作品であることを忘れては往けない。物語を面白くするための創作が混入しているのだ。得に戦闘の場面は信用できない。

この時代の記録を纏めたのに「愚管抄」という作品がある。この作者慈円は同時代と言える人で、乱の関係者やそれから直接話を聞いたりして人の証言が取り入れてあり、良質な資料である。今回はこの本を基に乱を検証してみる。

源義朝は、出陣から帰還まで時々刻々と内裏に使者を送って戦況を報告している。この内容を当時のお公家さんが記録して置いたら極めてよい資料になっていたはずであるが、残念ながら報告をしたと言うことしか残っていないようだ。

まず義朝であるが、「父であろうと朝敵ならば戦う」と宣言しているのである。これからみても親子喧嘩は可成り深刻ではなかったろうか。

次に為義は自分の軍勢が少ないと言っている。仮に兵力を武将の勢力範囲としてみると。複数の國を支配していた義朝と清盛が双璧であろう。ひとつの國に勢力を張っていたのはこの乱の当事者では為義、源頼政、源(足利)義康、上総広常-これは義朝の武将-くらいである。この中でも崇徳側は為義だけである。それ以外は少数の荘園を支配していたに過ぎない。後年の源平合戦での梶原氏や三浦氏並の勢力である。つまり実質的な兵力では雲泥の差があったようだ。

次に後白河方であるが、源平が二手に分かれて出陣したとある。保元物語ではまず平氏が攻め、追い返された後源氏が攻めたとある。無荒老はこれを源平が交互に攻めたと考えたい。つまり為義軍は続けて戦っているのに後白河方は交替で戦っているのだ。相手を疲れさせて勝利する公式と言うべき戦法である。

別の資料であるが、東国の武士には、弓の強い相手には左側から攻めよという格言があった。つまり弓という兵器の性格上左側の敵には発揮する威力は右側の敵には発揮できないのである。つまり自分は左から攻めるのがよいのである。この戦法で為朝の弓はそんなに威力がなかったといっている。

為朝の弓だけが取り上げられているが東国には弓の名手は多数いたのである。藤原頼長は鎧を付けていたので狙われ、筑後の前司重定という武士にねらい打ちされて命を落としている。

ちなみに公家の衣服を着ていれば当時は標的とされなかったのだが、鎧を着ていれば戦闘員として矢が飛んできたのである。頼長はバカなことをしたのである。

多勢の後白河方は崇徳軍を風上から引き離し、風上から火を付けた。これで戦闘は事実上終わり、崇徳軍は散り散りになるのである。

「平清盛」史実はこうだ7-保元の乱追加2012/06/06 18:50

平安時代まではシビリアンコントロールが徹底していた。武士が早まって戦火を交えても政府は関与しなかった。「私闘」というのである。武士の争いに一々関与するだけの力がなかったのかも知れない。しかし、「私闘」には何らの恩賞も出なかったのである。

よい例が後三年の役である。政府の命令が出る前に戦闘を始め、命令を出すことを希望したがついに出なかった。その結果が義家が自腹を切って部下の報いると言うこととなったのである。

但し、刀伊の入攻のように外敵から攻められた時はこの限りではなかったのは勿論である。これも割と辛い恩賞ではあつたが。

御前会議が開戦を認めるまでは武士は戦おうとしなかったのである。日本史の中では武士は現金で欲深い存在が一般的なのである。恩賞の当てがないのに戦果を開こうとはしない。ただ、味方が優勢な時は早く開戦をとせつくだけなのである。

崇徳上皇方は陣地とした白川殿の防御力など考慮しなかったのではないか。為義は味方が無勢であることを含め至急退却することを進言している。しかし、頼長は援軍を待てといって提案を却下し、義朝軍が攻めるまで事態を放置したのである。これから見ると挙兵にあたり遠くからの援軍も計画されていたようだ、この援軍についてその後の記録は見あたらない。

為義の退却先が東国であったのは現状を楽観視し過ぎている。そこは義朝の地盤である。多分義朝の子の悪源太義平がいたのではないか。保元の乱の記録の何処にも勇猛の士として知られた義平が京都にいた痕跡がないのである。

愚管抄には為義軍を攻めたのは一の郎党鎌田正清となっている。義朝が戦況報告を続けているのは全体を把握される場所にいたためだろう。東国武士を前線で指揮したのは鎌田であり、義朝ではなかろう。保元物語のように義朝が為朝の弓の先にのこのこ出たとは考え難い。

脱法ハーブ-発想の転換をして取り締まったら2012/06/07 19:07

脱法ハーブなるものが横行し、無謀運転など一般市民に危害を及ぼすことが多い現状である。

ここは発想の転換をして取り締まるべきではないか。とにかく使う本人に無関係の市民が被害者となるのである。

現在は成分だけで取り締まっている。これでは化学的に類似の物質の使用は取り締まれない。これを作用に改めて取り締まるべきではないか。こうすれば類似物質でも取り締まることは可能となる。

次に使用者に対して罰則を強化すべきである。刑事罰だけでなく行政罰-免許取消など-も考慮してよい。

とにかく変な化学物質を変な目的に使用したらとんでもない罰を受けるようにすべきなのである。それは周知すべきものであり、学校でその危険性と厳罰であることを教育すべきものではないか。