「平清盛」-史実はこうだ6-保元の乱 ― 2012/06/03 18:48
保元の乱の話をする時「保元物語」が話題となる。しかし、これは軍記物という文学作品であることを忘れては往けない。物語を面白くするための創作が混入しているのだ。得に戦闘の場面は信用できない。
この時代の記録を纏めたのに「愚管抄」という作品がある。この作者慈円は同時代と言える人で、乱の関係者やそれから直接話を聞いたりして人の証言が取り入れてあり、良質な資料である。今回はこの本を基に乱を検証してみる。
源義朝は、出陣から帰還まで時々刻々と内裏に使者を送って戦況を報告している。この内容を当時のお公家さんが記録して置いたら極めてよい資料になっていたはずであるが、残念ながら報告をしたと言うことしか残っていないようだ。
まず義朝であるが、「父であろうと朝敵ならば戦う」と宣言しているのである。これからみても親子喧嘩は可成り深刻ではなかったろうか。
次に為義は自分の軍勢が少ないと言っている。仮に兵力を武将の勢力範囲としてみると。複数の國を支配していた義朝と清盛が双璧であろう。ひとつの國に勢力を張っていたのはこの乱の当事者では為義、源頼政、源(足利)義康、上総広常-これは義朝の武将-くらいである。この中でも崇徳側は為義だけである。それ以外は少数の荘園を支配していたに過ぎない。後年の源平合戦での梶原氏や三浦氏並の勢力である。つまり実質的な兵力では雲泥の差があったようだ。
次に後白河方であるが、源平が二手に分かれて出陣したとある。保元物語ではまず平氏が攻め、追い返された後源氏が攻めたとある。無荒老はこれを源平が交互に攻めたと考えたい。つまり為義軍は続けて戦っているのに後白河方は交替で戦っているのだ。相手を疲れさせて勝利する公式と言うべき戦法である。
別の資料であるが、東国の武士には、弓の強い相手には左側から攻めよという格言があった。つまり弓という兵器の性格上左側の敵には発揮する威力は右側の敵には発揮できないのである。つまり自分は左から攻めるのがよいのである。この戦法で為朝の弓はそんなに威力がなかったといっている。
為朝の弓だけが取り上げられているが東国には弓の名手は多数いたのである。藤原頼長は鎧を付けていたので狙われ、筑後の前司重定という武士にねらい打ちされて命を落としている。
ちなみに公家の衣服を着ていれば当時は標的とされなかったのだが、鎧を着ていれば戦闘員として矢が飛んできたのである。頼長はバカなことをしたのである。
多勢の後白河方は崇徳軍を風上から引き離し、風上から火を付けた。これで戦闘は事実上終わり、崇徳軍は散り散りになるのである。
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