「平清盛」史実はこうだ7-保元の乱追加2012/06/06 18:50

平安時代まではシビリアンコントロールが徹底していた。武士が早まって戦火を交えても政府は関与しなかった。「私闘」というのである。武士の争いに一々関与するだけの力がなかったのかも知れない。しかし、「私闘」には何らの恩賞も出なかったのである。

よい例が後三年の役である。政府の命令が出る前に戦闘を始め、命令を出すことを希望したがついに出なかった。その結果が義家が自腹を切って部下の報いると言うこととなったのである。

但し、刀伊の入攻のように外敵から攻められた時はこの限りではなかったのは勿論である。これも割と辛い恩賞ではあつたが。

御前会議が開戦を認めるまでは武士は戦おうとしなかったのである。日本史の中では武士は現金で欲深い存在が一般的なのである。恩賞の当てがないのに戦果を開こうとはしない。ただ、味方が優勢な時は早く開戦をとせつくだけなのである。

崇徳上皇方は陣地とした白川殿の防御力など考慮しなかったのではないか。為義は味方が無勢であることを含め至急退却することを進言している。しかし、頼長は援軍を待てといって提案を却下し、義朝軍が攻めるまで事態を放置したのである。これから見ると挙兵にあたり遠くからの援軍も計画されていたようだ、この援軍についてその後の記録は見あたらない。

為義の退却先が東国であったのは現状を楽観視し過ぎている。そこは義朝の地盤である。多分義朝の子の悪源太義平がいたのではないか。保元の乱の記録の何処にも勇猛の士として知られた義平が京都にいた痕跡がないのである。

愚管抄には為義軍を攻めたのは一の郎党鎌田正清となっている。義朝が戦況報告を続けているのは全体を把握される場所にいたためだろう。東国武士を前線で指揮したのは鎌田であり、義朝ではなかろう。保元物語のように義朝が為朝の弓の先にのこのこ出たとは考え難い。