「平清盛」-史実はこうだ10-伝説の勇士為朝 ― 2012/07/08 19:08
源為朝は「保元物語」の主人公である。勿論これは軍記物部あり、これを全て史実とは言えない。誇張された箇所は少なくないのだ。
それで他の文献から実像を見ようとしても意外と少ないのだ。
まず2メートル強の身長の大男である。誇張はあるとしても潜伏中に発見された決め手が大男であったから間違いないだろう。
弓の名人で強弓の使い手である。これも吾妻鏡など裏付けはある。
九州で合戦を繰り返していた。どのくらいか分からないが、中央に不当と訴えられて父の為義が責任をとらされる羽目となった。その末少数の部下を率いて上京している。
保元の乱では為義の6人の子が崇徳軍に参加しているが、愚管抄では頼賢と為朝のみが取り上げられている。残りの4人は多分頼賢の部下であったろう。これも自前の兵力を持っていたことの裏付けである。
敗戦後降参せず、潜伏を続けた。なお、九州へ逃げようとしなかったらしい。
戦後処理では伊豆へ遠島となる。ところがここでも暴れ出しついに討伐軍が送られここで自害する。最初に切腹した人物といわれている。
伝説では色々言われている。
左手の方が右手より12センチ長かった。これが強弓の由来である。
九州に「雁回山」という山がある。為朝がそこに登って雁を射落とすので、雁の方がその山を避けるようになった。これがその山の名の由来である。
伊豆で追っ手の船を1矢で沈めた。
本人か子孫が琉球へ渡り王朝の始祖となった。何とこれは琉球王朝の正史になっている。
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