「平清盛」-史実はこうだ21-建春門院滋子2012/10/28 17:18

高倉天皇の生母である滋子は後白河院の数ある后妃の中で最も愛されたようだ。更に平氏の出身であることもあり、清盛との関係が悪化しないようにしていたと考えられる。

彼女が死去すると後白河院の後宮に異変が生じている。後白河院が男色にのめり込むのである。それは丹後局が愛人となるまで続くものと言える。多くの子女がある院だが滋子の死後丹後局の登場するまで子供はいない。丹後局が院の最後の子供を産んでいる。

この時期に男色関係で院に取り入ろうとしたのが藤原成頼である。鹿ヶ谷の事件の張本人である。院を担いで平氏打倒を考えたようだ。そのための手段が男色とも言える。

これで院と清盛の関係は急速に悪化したのである。