世界をつなげ花の輪に2008/05/01 18:55

「太陽は呼び、地は叫ぶ」に始まる日本のメーデー歌が町に響かなくなって久しい。

この歌は公募で選ばれその明るい歌詞と軽快なマーチで日本を代表するメーデー歌となったのである。

今一部の歌声喫茶で歌い継がれているようだ。インターネットでその歌詞とメロディを得ることは出来る。-ホントはこのブログにかきたかったが、著作権が分からないので止めた-

この歌を思い出してみると現在の日本の労組のふがいなさが目に付く。労組の基礎である組織率向上が失敗(努力しているとして)の連続である。そのほかにも労働者の頼りになることをしているとは思えない。

労使の協調と対立を併存していた時代が日本経済はもっとも活気があったように感ずる。

今の労組は頼りないと思うのは無荒老だけであろうか。

無荒史談77-院政の上皇-後水尾上皇2008/05/02 18:55

江戸時代初期に皇位におられた方である。徳川幕府に対抗して皇室の地位を少しでも上げようと努力されている。そのために徳川将軍の血を引く明正天皇を即位させたりしている。

上皇(法皇)として51年間院政をされている。これに親政の19年を加えると70年間最高の地位にあったことになる。これは年代が明確になってから最高の治世である。これに匹敵するのは昭和天皇(摂政時代を含めて)の67年位である。後陽成上皇が院政されたとしても6年であるから差し引いても64年間である。

上皇の治世は徳川幕府との交渉に明け暮れた。4代の将軍との駆け引きがあつたのである。治世の終わりは奇しくも5代将軍徳川綱吉の時代の幕開けとほぼ同時である。上皇の治世の間に天皇と将軍の関係は明確になったと言える。

徳川将軍に皇室の威厳を示す為に努力された帝王と言える。

憲法改正2008/05/03 19:14

無荒老は改憲論者である。ただし、その理由は通常言われている改憲論者と全く別のものである。

無荒老が改憲が必要というのは単に制定後60年が過ぎたからという単純なものである。

日本国憲法が制定された当時、日本は極東の小国であり、世界に影響を及ぼす力などなかったのである。この国をよくする為の方策の一つが憲法改正であった。

憲法改正の手続きは、明治憲法の規定どおりに行われ、衆議院と貴族院の圧倒的賛成で成立している。今の9条改憲論者につながる先輩もまた賛成票を投じているのである。

現在の憲法の下、日本は復興し発展したのは事実である。しかしその結果として憲法制定時と日本の国際的地位も変わったし、極東の状況も大きく変化した。

「米国の押しつけ」と言う改正論法があるが、「米国に迎合」という形の憲法改正であってはいけないのである。これは矛盾した論理と考えている。

9条を云々する前に、日本のあるべき姿である前文を国論統一すべきである。第二次大戦の敗戦国である日独ともに武力行使に関わりが少なかった故に復興し繁栄したのである。それを憲法改正に於いて忘れてはいけない。戦勝国の米国もソ連邦も戦争に関わっている間にその相対的地位を失いつつあるのである。

前文の国論を統一し、それに忠実に各条文を作成して現在の日本が更に発展する為の憲法とすることが肝要である。

穀物高騰とアメリカの論理2008/05/04 19:25

ブッシュ大統領は、穀物高騰に対して最貧国に資金援助をすると言っている。ところがこれはアメリカ企業の利益になるような手段に過ぎない。

穀物高騰の要因の最大のものはバイオエタノールであると考える。車がトウモロコシを食べるのである。穀物は高く売れ方に売られるのが当然であるから、最貧国よりも車の方に売るのはアメリカ資本主義の論理である。

一方穀物不足に国に穀類の代金を援助してもその金は穀物の生産・流通の方に流れるのは理の当然である。これもアメリカ資本主義の論理である。

要するにブッシュ大統領の施策はアメリカ企業の方に向いているのである。最貧国の方を向いているとは言えないのである。

穀物相場の高騰を避ける最良の方策は、世界が穀物あるいは人間が食べられるものを原料としたバイオエタノールの生産を止めることである。車が人間の食べ物を食べなくなると、それだけ人間の食べる方にまわるのである。

日本政府も穀類起源のバイオエタノールの虚名に踊らされることなく、本当に環境に優しいバイオ燃料に目を向けて欲しい者である。

無荒史談78-院政の上皇-後桜町上皇2008/05/05 19:25

最後の女帝として知られる方である。初めから中継ぎの女帝として即位された。ところが、中継ぎの役目が済んだとして譲位された後桃園天皇が皇子のないまま夭折された。そのために急遽光格天皇を後桃園天皇の養子として即位させることとなった。光格天皇は当時9才である。院政の形は取られなかったが、上皇としていろいろな仕事をされた様だ。むしろ上皇時代の方が実績を残されたのではないか。

皇位を離れて3代目である光格天皇に皇室のしきたりなどを伝える人は後桜町上皇をおいて他にない。後桜町上皇は光格天皇に天子としての教育をした方として考えられている。光格天皇は後桜町上皇の期待通り名君となられたといえる。後桜町上皇の言いつけどおり勉学に励まれ、時々は上皇に施政の結果を手紙で報告されている。後桜町上皇は上級貴族に光格天皇を見習って勉強しろとまで言っている。天明の飢饉の折は、上皇と天皇は共に幕府に対策を掛け合っておられる。また、時に触れ光格天皇から後桜町上皇への報告と言うべき書簡が残されている

現在は下火になったが、女性天皇論者は後桜町上皇の事績を参考にする点が多いと思う。

幕末の皇室の姿勢に影響を与えた方と見るべきであろう。