V、UそれともL2009/01/02 20:06

現在の不況はどう回復するのだろうか。

V:底を打ったら今までの急降下と同じスピードで急回復する。

U:不況の底でしばらく停滞してから急速に回復過程にはいる。

L:一旦行き着くところまで落ちて回復の兆しが見えない。

このような不況の場合、VかLの可能性が高いと思うが?

VかUで早く回復して欲しいものである。

無荒史談158-日本の戦-応仁の乱2009/01/03 19:44

足利将軍は、尊氏、義詮の2代は文字通り武将であり戦乱に明け暮れた。3代の義満で戦乱は収まったが、安定していたのは此処までと言える。4代の義持はどうにか体制の維持は出来たが次の義教は家臣に暗殺されている。

この頃になると氏族内の争いは特に名分を必要とせずに行われるようになり、家臣団を二分して熾烈を極めた。しかも有力家臣の中にはこの期に乗じて主君の領地の支配権を握ろうとする連中も出てくるのである。「下克上」の始まりである。

将軍の権威は衰退していたが、それでも後継者争いが生じそれを武力で解決いようとしたのが応仁の乱である。ところが招集された武将達はあまり真剣に戦をしていない。にらみ合いが殆どである。

武将達は自分の領地のことが気になっていた。自分のいない間に反対派に領地を取られる心配があり、有力家臣の下克上にも気を付けねばならなかった。朝倉氏のように下克上の成果を公認してもらうのに相手側に寝返った武将もいた。

そのうちに領有権は実力がものをいうようになり、一々お墨付きをもらう必要は感じられなくなった。武力がものをいう戦国時代の始まりである。足利幕府が支配する地域は少なくなっていく。幕府の経済力に寄生していた貴族階級や皇室は貧困に沈んでいく。

なお、戦国時代と言っても民衆の支持がなければ何時寝首をかかれるかわからない。支配地を安定させ、兵糧を確保し、軍資金を貯めねば勝ち残れなかったのである。しっかりした行政が出来たものが勝ち残ったのである。

中東和平所感2009/01/04 19:10

中東和平に関して思うことは、ノーベル平和賞を保護にした連中に対する的どおりである。

アラファト、レビン両氏にノーベル平和賞が贈られたときは、中東和平に一抹の期待を持った人は多かったと思われる。

レビン氏はなんとイスラエル人により暗殺された。アラファト氏もその後ぱっとせずに亡くなられた。

そして今泥沼と言える武力衝突である。

イスラエル国民もハマス支持の諸君も世界が良しとしたノーベル平和賞を尊重して欲しいのである。

就業アンバランス2009/01/05 19:09

非正規従業員の契約終了が問題になっている一方で、介護産業での人材不足が顕著になっている。

介護産業でもよいから定職を望む人がいれば、その支援がなされてしかるべきであろう。

介護業よりも失業を選ぶとなれば、介護産業の見直しが必要となろう。

就業に関して極端な報道がある。行政はどう考えているのだろうか。

無荒史談159-日本の戦-天下布武2009/01/06 19:13

日本の戦国時代は時とともに領国の拡大が進み、数カ国を支配する大名達の争いの感を呈してきた。次なるものは有力大名による天下統一の企てである。まずこれに取りかかったのが今川義元である。彼は京都を制圧する目的で大軍を率いて出発した。

ところが彼は桶狭間で織田信長の為にあっけなく戦死してしまう。この戦は義元が各地へ兵を出し本陣が小人数であったところに信長の軍の主力が襲いかかった戦として知られている。信長軍の移動が雨の中に行われたことや、本陣の位置が推定できたことなど天の時、地の利を味方に付けたことも大きい。

当主の戦死で勢力を失った今川氏、新規に独立し味方に付いた徳川氏と東からの脅威がなくなった信長は美濃を攻める。そして落ちぶれた足利将軍を担いで近畿に進出する。軍事だけでなくいろいろな手段を用いて勢力を増大した。本願寺との和議では朝廷の力を利用している。信長の戦法は桶狭間の戦いの方が例外で、大軍と多量の鉄砲で相手を圧倒するのが普通である。

朝倉氏、浅井氏、今川氏、武田氏を相次いで滅ぼし、次は毛利氏の番であった。ところが明智光秀の反逆であっけなく死ぬのである。光秀の立場は所領の配置から見て「近衛師団長」であり、信長親衛隊の隊長でもあったのである。この時は信長親征に同行する立場だったのである。

無荒老は光秀は「魔が差した」と思っている。天下人とその後継者が殆ど兵を持たずに目と鼻の先に逗留している。自分は出征命令を受けているので大軍を率いることに誰も疑いを持たない。信長、信忠父子を殺せば天下は自分に転がり込む。あまりにも旨い幻想に遂魔が差したと思っている。現実には光秀に同調する武将は一人もなく、彼は孤立無援のうちに敗死するのである。