谷垣人事-舛添氏の対応如何2010/04/01 19:01

谷垣自民党総裁が参議院選挙対策本部補を強化する人事を考えているらしい。その目玉が舛添氏と言われている。

勘ぐって見ればこれは離党すらほのめかしている舛添氏をつなぎ止める策と取られる。つまり舛添氏を自民党の体制内に縛って行動を制限しようとするものである。谷垣総裁にしてみれば舛添氏が離党しては困るのである。

舛添氏は執行部に不満を持っていることは公然たる事実である。執行部をそのままにして舛添氏を取り込むことが出来るのか見物である。

一方舛添氏から見ると従来の主張の執行部の改造なしで党の役職を引き受けることがどのような意味をもつかを考える必要がある。自己の主張を曲げるとすればそれなりの説明をしないと人気が急落しかねないのである。これは極めて難題と言える。

この辺を上手にやらないと自民党の支持率は急降下しかねない。選挙民にとって「政治とカネ」抜きで民主党を支持するか。選挙に棄権するかを選択する羽目になりかねない。勿論自民党に投票を止める選挙民は民主党離れの選挙民を上回る可能性が大なのである。

若林議員辞職-代打は農水相だけではなかった2010/04/02 19:00

若林正俊議員は自民党政権下では農水相の代打専門として「評価」されていたのである。また、鳩山総理の当て馬として国会で投票の対象とされて人物である。

これだけの人物がなんと参議院の投票で「代返」をしでかしたのである。つまり議決て゜も代打をしたのである。

これでは議員辞職に追い込まれたのも止む得ないであろう。

ところでこのような「代返」がなされない様にすることも議会の投票システムの検討事項ではなかろうか。

また、過去の投票で代返がなされていないかも討議の必要があろう。大差での評決であればいざ知らず、僅差の場合は「代返」が国政を左右しかねないのである。

また、若林氏が次の選挙には引退するとしているので不正をしても構わないという気になったのであればこれも一大事なのである。

報道されている以上に問題が複雑と感じられる。

与謝野氏自民党離党-舛添氏はどうする2010/04/03 19:00

与謝野氏が自民党離党届を提出した。これに続く議員も若干名いると言うことである。

ここで舛添氏の行動が気になる。現在の選択肢は少なくとも3つあるのである。

一つ目は自民党の現執行部に協力して参院選挙を戦うと言うことである。ただし、舛添氏は自分自身の選挙区で選挙した実績がない。「客寄せパンダ」」以上の効果は期待できないのである。しかも「変節」という攻撃を与党から受けかねないのである。

次ぎは離党していずれかの新党に参加することである。これは主義主張を同じくする新党が出来るかにかかっている。

最後は自分主催する新党を作ることである。どのくらいの議員が同調するかは見物である。

現在の状況から見れば与謝野新党は舛添氏の参加を当てにしていない様に思われる。そのくらい主張が異なるのである。舛添氏が新党に参加するには主義主張の面で妥協しなければならないであろう。

邦人中国で処刑-日本の麻薬の刑は軽すぎる2010/04/04 19:14

中国で日本人の麻薬犯罪者が処刑されるそうだ。これは中国の法規によって決まっているという。

中国は未だに「アヘン戦争」を忘れていないのである。外国人の麻薬犯罪者に厳しいのは当然である。

しかし、日本の麻薬・覚醒剤犯罪者に対する刑罰は軽すぎると思う。初犯などで執行猶予がつくのは当たり前の状態である。これでは麻薬・覚醒剤対策の意識に疑問がつく。

麻薬・覚醒剤の犯罪に執行猶予など付けるべきではない。また、罰則は今より格段に重くすべきである。各国の量刑を勘案し重い方に合わせるくらいにする必要がある。

その方に行政上の罰をくわえるべきである。国家資格は無条件に剥奪すべきである。勿論運転免許は含まれるし、仕事に必要な国家資格も剥奪されるべきである。司法、医療など国民生活に関わる重要資格は特に厳しくすべきである。

敢えて言う。今の刑罰規定では麻薬・覚醒剤常用者には天国と言える。極めて不利益な様にしないと根絶など夢物語である。

無荒史談256-日本の神々-常磐神社2010/04/05 18:52

水戸藩の藩主、光圀と斉昭を祀る。水戸家の2代目と幕末の藩主である。

 光圀は天下の副将軍といわれ、幕政の重鎮であった。それが昂じて庶民の間に尊敬され、本人は関係していない「水戸黄門漫遊記」なる物が作られたのである。全てが作り話であるが、ワンパターンの構成ながら日本人に受ける内容であり、TVの一大長寿番組となっている。

 光圀の業績は大日本史を編纂したことであり、その中で楠木正成を「忠臣」として取り上げている。また、足利氏を朝敵として誹謗したが、「将来足利氏に後継者がいなくなったときにはわが水戸家より養子を出せ」と遺言し事実そうなったのである。

 斉昭は徳川一門でありながら朝廷を重視する勤皇家であった。水戸藩には勤皇の志士が輩出し、桜田門外の変では主役となった。しかし、肝腎の明治維新の時にはエネルギーを使い果たしたのか目立った人材が現れていない。

 この二人を明治になって顕彰するためにこの神社が創られた。