「平清盛」-史実はこうだ14-源義朝2012/08/05 17:43

義朝なくして鎌倉幕府はある得なかったと言われる。彼が再構築した東国武士団は頼朝に受け継がれたのである。逆に清盛が東国武士団を我がものにできなかったので平家は滅ぼされたとも言える。

東国武士団は義朝から5代前の頼信にその端を発している。頼信が東国武士内の異分子平忠常を討伐してから源氏に従う東国武士が出始め、続く頼義、義家が東北地方を征服する時に家人として組織されたのである。

朝廷は源氏が東北地方に進出しかねないことを恐れ、義家を陸奥守から外した。その空白は奥州藤原氏が埋めてしまった。

義家を継いだ義親と為義は、東国武士団を放置したようだ。団結の中心が影が薄くなり混乱してきたと思われる。更に義家以後の新興豪族である源氏の傍流である佐竹氏、足利氏、新田氏、武田氏などは為義に従う意志などなかったであろう。

義朝が少年時代に東国に移住した時、東国武士団の統制はたががゆるんでいたと思われる。また、為義がどのような意図で義朝を東国にゆかせたかは謎である。{邪推をすれば体よく追い払ったのかも?}

義朝は東国武士の争いに介入して家人を増やした。その結果東国は安定し、中央に年貢が入りやすくなったのであろう。武家の統領として実力が認められ中央でも重んじられるようになったのであろう。

彼は下野守となった。見方によっては足利氏を配下にする手段としたのかも知れない。事実保元の乱では義朝と同等に扱われていた足利氏が頼朝の時代には家臣となっているのだ。

下野守は父の為義が生きているのにされを超える官位を得たと言うことである。これは希有のことである。それだけ朝廷が懐柔しようとしたのか?あるいは当時はやりの成功(賣官)なのか?

頼朝は彼が築いた南関東から東海に掛けての東国武士団の地盤を受け継ぐことに成功した。せいぜい1国規模の足利、新田、武田氏は頼朝に従わざるをえなかったし、それを拒否した佐竹氏は滅ぼされたのである。