「平清盛」-史実はこうだ22-鹿ヶ谷始末 ― 2012/11/03 17:37
簡単に平氏討伐の陰謀というが不可解なことが多いのも事実である。
「犯人」達の始末をまず見てみる。
西光-拷問の上自白書に署名させると直ぐに処刑した。関係者が面会する余裕もないほどである。これが唯一の証拠となっている。また即時に子供達も連座して処刑されている。ちなみに平氏と仲がよかった当時の天台座主明雲とは所領のトラブルをかかえていた。
成頼-重盛と縁戚関係にあり重盛が助命に奔走しいったんは流罪となったが流罪地で暗殺された。
成経-教盛と縁戚関係にあり死一等を免れて喜界島に流罪となる。後赦免された。教盛は流罪先の面倒を見ることを黙認されている。
俊寛-頼盛と縁戚があり、喜界島に流罪となったが赦免されなかった。頼盛は何もしていない(なにもできなかったか?)。清盛から睨まれていたフシがある。
平氏の一族で個人的に院の近親と関係があったのが全て切り離されているのである。
保元、平治の乱で平氏軍の指揮を執った勇将が二人とも政権の中枢から外されるのである。やがて重盛は失意の中世を去り、頼盛は事実上の引退の羽目となるのである。
この頃から保元・平治の乱では一枚岩を誇った一家に不協和音が出始めるのである。
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