無荒史談 290 藤原頼長-自信過剰で自滅した秀才2014/01/04 17:13

頼長は天下第一の学者として自他共に認める秀才であった。父の忠実が白河法皇の怒りを受けて閉門している時に誕生した。当主である兄の忠通とは親子ほど年が違う。

 忠通にはなかなか跡継ぎが生まれなかったので一時猶子となり後継者となる予定となったが、その後忠通に次々と男子が誕生し、その目はなくなった。

 父の忠実から大変かわいがられた。忠実は忠通に迫って関白の座を渡すように強制したが忠通はこれに返答しなかった。鳥羽法皇が問いただすと、忠通は頼長の欠点を挙げ、世は乱れるといった。

 しかし、忠実は強引に氏の長者の位置を忠通から取り上げ頼長に与えた。この時源為義の武力を使って家宝を取り上げている。しかし、忠通は関白を止めなかったので、頼長を内覧とした。

 頼長は自信満々で政治を行ったが、そのやり方は鳥羽法皇の意に適わなかったようだ。しかも気に入らぬ人物に暴力を振るうことも多かった。このため朝廷で次第に敬遠されるようになり、近衛天皇崩御を期に失脚した。

 頼長は崇徳上皇と組んで保元の乱を起こした。崇徳上皇の子の重仁親王を帝位に就け、自分は摂政にでもなるつもりだった。しかし、戦闘に敗れた。彼は迂闊にも鎧を付けており、公家は矢の標的とならないのに武士と思われて重傷を負いついには落命するのである。ちなみに保元の乱の戦闘で落命した知名人は頼長だけであった。

 男色に興味があり、「男癖が悪い」人物であった。