無荒史談 286 法皇様は破戒坊主-末法の世2013/12/07 17:01

白川上皇は出家して法皇となられた。まず色々な僧侶としての行事は熱心になされたようだが、戒律だけは守られなかった。

 堀河天皇のご生母の賢子中宮は白河天皇の寵愛を一身に受けられており、亡くなられた時は、天皇が最後まで別れを惜しまれていた。しかし、亡くなられた後、好色ぶりを発揮されることとなる。

 宮中の多くの女性と関係を持たれ、それらの女性を臣下に与える-これを俗に「お古を賜る」という-事をなされたのである。そのころ平忠盛が院に仕えており、この為に平清盛が御落胤であるとの説が出てきた。

 「お古を賜る」事になった一人がなんと孫の鳥羽天皇である。このため崇徳天皇が白河天皇の子という説を生み-しかも鳥羽法皇がこれを信じていた-保元の乱の一因となったのである。

 尚、男色にも興味があられたようだ。夜の関白と綽名された藤原の顕隆はその可能性が高い。北面の武士を置かれたが、夜のお相手のためとも見られる人物もその中にいる。