無荒史談 289 鳥羽院政-政治の混乱が増幅される2013/12/28 17:09

鳥羽天皇は院政の当事者の祖父の白河法皇と衝突しかねない気性と思われる。20才そこそこで強制的に譲位させられ、実権のない上皇となった。しかも譲位した崇徳天皇に関して鳥羽上皇は「叔父子」といい白河法皇の子と思っていた。事実はともあれ鳥羽上皇がこう信じ切っていたことが争乱の火種となる。

 院政の主となった後、鳥羽上皇は白河法皇から処罰された藤原忠実の復権を行う。閉門を事実上解き、忠実の溺愛する子の頼長に地位と権限を与える。白河法皇の横やりで出来なかった忠実の娘の入内も実施した。

 皇統を崇徳上皇の子孫の伝えたくないので、上皇となってから生まれた近衛天皇に譲位させた。これで近衛天皇に皇子が生まれれば目論見どおりであったが、天皇は病弱で子供がないまま早世してしまう。

 次の天皇には待賢門院が生んだ、鳥羽上皇の子である後白河天皇を擁立した。これは崇徳上皇の子孫に皇統を嗣がせないという意思表示でもあった。

 これに先立ち頼長が鳥羽法皇の寵愛(男色もあったか?)する藤原家成の家を破壊する行動を取ったことで、鳥羽法皇と頼長の間がおかしくなった。後白河天皇即位に関して頼長は蚊帳の外に置かれ、法皇は頼長の兄忠通の意見を聞くという形式を取っているのである。

 頼長は恒例に従って天皇の代替わりに辞表を提出した。通常「天皇これを許さず」といって辞表が返却されるという形式的な行事なのであるが、後白河天皇即位の時は、なんと頼長の辞表が受理されるのである。

 この結果崇徳上皇と藤原頼長の不満分子が接近するのである。