無荒史談44-歴代の中で疎略に扱われた帝達-序 ― 2008/02/07 19:51
現在の今上陛下は、125代と公式になっている。しかし、過去に於いて歴代に数えられなかったり、一旦歴代扱いされた後除かれた帝もおられるのである。これらの帝について述べてみたい。
過去に於いて歴代扱いとして歴史に名を残していたが、その後除かれた神功皇后
古事記・日本書紀ともに政務を執ったと明記されているにも拘わらず、公式に歴代に数えられていない飯豊天皇
以前は歴代に数えられず、明治になって諮号が奉られ歴代に数えられた弘文天皇、仲恭天皇
即位しているのに諮号がなかったため、明治になって諮号を受けた淳仁天皇
南北朝分裂以前に正式に即位しているのにどうゆう訳か北朝初代となっている光厳天皇
以上の6方について意見を述べることとする。
「我が家の味」作りへの提案 ― 2008/02/08 19:39
最近はいろいろ食に関する話題が絶えない。しかもその多くが安全に関するものである。
無荒老は提案する。「我が家の味」を各家庭で作ろうではないか。
冷凍食品など、他人が考えた味である。それを食べるのも良かろう。しかし、一つでも二つでも「我が家の味」を作ろうではないか。初めはまずくても良い。家族が協力して改善してゆけばよい。
材料も安全な信用おけるものを選べばよい。忙しい人は初めは週に1回でも2回でも良い。とにかく我が家で料理することである。これは家族の心の絆を深めるのに役立つであろう。「我が家の味」を確立する為に家族が協力する姿勢が大事である。
食に関して家族の対話が生まれれば、これも一つの進歩である。とかく食べ物に関して家族で口論になることもあるが、これを前向きに捉えて「我が家の味」を作る為のものとすればよい。「まずい」ではなく、どのような味にしたいかを言うことにすればよい。仲の良い家族同士で「我が家の味」の情報交換をすれば地域の連帯に役に立つ。
皆さん始めませんか。
無荒史談45-歴代の中で疎略に扱われた帝1-神功皇 ― 2008/02/09 19:12
神功皇后は長い間歴代に勘定されている。無荒老が知るもっとも新しいのは「神皇正統記」である。もっと後世のものがあるかも知れないが、今のところ手元にない。しかし、皇后は明治時代には歴代から外されているのである。
どちらかと言えば伝説上の人物であるので、その業績は推定の範囲をでない。学説の中には存在を否定する様なものもある。
出自は息長氏という古代豪族である。ただし、息長氏はこの後あまり栄えてはいない。代わって武内氏一族が興隆している。武内宿禰はこの時代の政治を担った人物と言われている。
息長氏は開化天皇の後裔となっているが、臣籍となって久しい。女帝の条件が皇族であった古代から見ると条件が満たされなかったのかも知れない。諮号も「天皇」ではなく「皇后」である。ある種の建前に基づいて歴代から外されたのであろう。
建国記念の日随想 ― 2008/02/11 19:30
建国記念の日は無荒老が子供のころは「紀元節」と言っていた。学校では「神武天皇が即位された日を太陽暦に直した日と教わった。
日本に文字が伝わった日、皇統は存在していた。
日本に暦が入った日、皇統は存在していた。
当然何時建国されたかは確定できない。それ程古い国であることを誇りに思う。
諸外国は暦や文字が伝わった日の後に建国された。それで建国の日を確定できる。日本は暦や文字以前から国家が存在する。何時出来たのか正確に示すことは出来ない。それ程古い国であることを誇りに思う。
日本の建国に関して明治維新以前から少なくとも600年は古すぎるとの議論がでている。しかし、何故か明治政府がこの日を「紀元節」として定めたのだ。
無荒老は「紀元節」制定以前特に維新以前に建国記念の日をどう扱っていたかは知らない。あるいは皇室の行事にもなかったのではないか。
まあ、下手な詮索は止めよう。素直に祝うこととしよう。一杯如何。
無荒史談46-歴代の中で疎略に扱われた帝2-飯豊天皇 ― 2008/02/12 19:23
古事記・日本書紀共に1年未満であったが、政治を見たことが記されている。これは皇位にあることと解釈して良い。
皇位にあることが2月から11月であったとされているので、慣例として即位の儀式は行われていない。即位式は皇位継承後年が明けてから行われるのが恒例である。これは現代でも続いている。昭和天皇も今上陛下も即位式を挙げられたのは皇位継承の年が明けた後である。
在位期間は後に歴代に加えられた仲恭天皇よりも長いのである。どうして歴代に加えられなかったのかその理由はあまり明確ではない。正史でない歴史書には24代天皇(この計算では神功皇后が歴代に入っている)となっているものもあるが。
これだけ重要な人物であるにも拘わらず、古事記と日本書紀では系図上の場所が異なる。これも異常である。どちらかが間違いであるか双方とも間違いであると言える。また、先代の記録「清寧天皇記」の中で、夫との関係が記されている。これも珍しい記事である。夫がいた天皇とすれば、女帝に関する議論に有効な事実を提供することとなるが、夫が誰であるかも解っていない。
ところで清寧天皇紀の記事が正しいとすれば、系図上の位置には問題がある。系図上では履中天皇の子か孫であるが、履中天皇の子とすると誕生後の帝の治世は反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇の後に清寧天皇が来る。当時の年数の数え方に問題があるとしても可成りの老婆となり、記事の信頼性は薄い。また、孫としても雄略天皇の即位前に生まれていることが必要であり、雄略天皇の治世を勘定するとこれでもかなりの年である。ちなみに雄略天皇の治世22年はそんなに誤差はないと無荒老は考えている。
古代史上もっとも謎に満ちた女帝である。
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