「平清盛」-史実はこうだ12-平治の乱は3月間続いた ― 2012/07/22 18:33
平治の乱は3月間の期間であるが、当時の資料以外では後半の部分を省略している。事件後の資料である「平治物語」も「愚管抄」も3月分の事件を平治の乱としている。
最初は信西殺害のクーデターである。
次が源平の合戦である。
そして最後は二条天皇親政派の追放である。これは頼朝の配流と同じ時になされた。これは最初から3月過ぎた時である。
信西、信頼の死で院政の推進者はいなくなった。そこで二条天皇親政派はこの際とばかり後白河院政を事実上停止しようとした。
後白河上皇は清盛に命じて二条天皇親政派を捕らえ、拷問の上流罪とした。これで有能な貴族は全くいない状態となった。残ったのは引退した忠通とまだ子供の基実くらいである。この時追放された藤原経宗はその後許された上左大臣となった人材であったのだ。
権力の空白状態で清盛は政界を牛耳っていく。後白河上皇、関白基実と婚姻関係を進めていくことで更に勢力基盤を強化するのである。
二条天皇親政派の追放は清盛の台頭に関係するのであるが、後世この事件は軽視される傾向にあるようだ。
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