無荒史談 312 義経謀反-同調する武士の少なさ2014/06/06 16:48

頼朝は御家人に対し、勝手に朝廷から官位をもらうことを禁じた。官位をもらうのはあくまでも頼朝の推挙によるとした。これは御家人の統制上重要な決定である。そしてその処罰は東国に帰ることを許さぬというものであった。つまり間接的に所領の召し上げにつながるものだ。

 ところが義経はこの禁を破り朝廷-実権は後白河法皇-から官位をもらった。 頼朝にしてみれば官位を貰わぬことを率先垂範すべき人物が違反したのだから怒るのは当然である。放置すれば幕府の統制を揺るがせかねない事態なのである。頼朝は壇ノ浦で捕虜となった平宗盛親子を鎌倉へ護送することを命じたが、規則通り東国へ入ることを許さず、捕虜だけを引き取り、見分の上京都へ送り返すことを命じた。

 ここで有名な「腰越状」が登場する。義経は弁解して兄の許しを得ようとするのだが、その内容には重大なミスがあった。なんと任官したのを正当化したのである。規則違反に対する一片の反省もなかった。これでは頼朝としても弟を排除しないわけにはゆかない。

 この件について後の世では義経を弁護しているが、現代の人事管理論から言っても、頼朝の方が正当であり、義経は間違っているのだ。このことがわからなかったゆえに義経は滅亡の道を歩む。

 義経は反逆する。しかし、付き従う武士は極めて少なかった。この時代でも、頼朝の「公平さ」が支持されたと思う。血縁・武功があっても規則破りを許さぬ姿勢は現代でも評価されるのだ。さらに義経を追討して功を立てようとする豪族も出てくる。そして形勢不利がわかると数少ない兵が次々と脱走するのである。反逆に際して獲得した頼朝追討の宣旨は、鎌倉から軍勢が上京すると簡単に取り消され逆に自分が追討される羽目となるのだ。