無荒史談 315 後鳥羽院の挙兵-承久の乱2014/06/29 16:59

後鳥羽上皇は倒幕の計画を推進した。ところでその計画に参加したのはいずれも下級の公家たちであった。摂関家をはじめとする上級の公家には相談されなかったようだ。土御門上皇は除外され、順徳天皇は参画した。

 この動きを察知した比叡山の高僧、元天台座主慈円は、愚管抄を著して風諫した。しかし、それでやめるような上皇ではなかった。

 後鳥羽上皇は挙兵した。しかし、付き従った武士はたまたま京都にいたという理由の兵が多かった。兵力の差は歴然たるものがあった。しかし、上皇を取り巻く公家たちは、綸旨が出ると武士たちは平伏して北条義時を殺害するものと信じていた。

 しかし、関東武士団はいわば「朝敵慣れ」をしていたのである。しかも後白河法皇のときには頼朝追討の綸旨が武力の示威におそれて義経追討に様変わりした実績もあったのだ。東国武者たちは大軍を持って攻め上る。謀議に参加した公家たちは慌てる以外になすすべはなかった。

 関東の軍勢は、あたかも準備していたように素早く攻め上った。官軍も激しく戦ったが兵力の差はいかんともしがたく瞬く間に敗北した。敗れた武将たちは上皇の館に立てこもって最後の一戦と考えた。

 ところが上皇は怖じ気づいて、降伏することを考え、武士たちの抗戦の提案を拒否し館に入ることを禁止するのである。武士たちは上皇に恨みごとを言いつつ立ち去り自害するのである。

 この戦いで後鳥羽上皇は僧兵たちの武力も当てにした。しかし、源平合戦で荒廃した寺院の再建に東国武士たちが協力したことの恩義を感じて、各寺院は冷淡な態度をとるのである。

 これ以後北条氏のナンバーツーすなわち次の執権候補が京都に在住するという体制ができるのである。朝廷は関東の監視下となるのである。