無荒史談55-極東日本史(4)-朝鮮半島三国時代2008/03/06 18:59

三国時代の最大の謎は「任那日本府」である。滅びた記録はあるが出来た記録がない。ということは、当初はあまり重要とはいえないものであった可能性がある。これは継体天皇の時に滅んでいる。継体天皇の時には倭国が新羅へ出兵しようとしたら、新羅に同調する九州の豪族が反乱を起こして妨害するという事件も起きている。

前回にも述べた様に三国は倭国を巻き込みながらそれぞれの思惑で朝鮮半島の統一へ動いていた。当初は百済が優勢であったと見られる。ところが百済は突如として暗君が続く。この為に当初の勢いがなくなってゆく。この頃から百済は倭国の武力を当てにする様になる。

倭国は対新羅政策が主要な地位を占める。しかもうまく行かない。新羅の武烈王は倭国に長期間滞在していたにも拘わらず、その事実を利用することすら出来ないでいる。百済は国力が衰えると共に倭国への依存度を高め、それに伴い文物の提供も加速していく。

倭国と百済の関係がスムーズにいったかというとそうでもない。大伴金村のように百済に権益を与えすぎたとして失脚した政治家もいる。また、百済は必ずしも倭国との同盟に忠実であったわけではなく、大和朝廷との間のトラブルも発生している。任那日本府の滅亡に関して百済はあまり役に立っていない。

一方倭国は、直接中国本土との交流を志し、中国の南朝に対して使者を派遣するなどしている。ただ、この事業は、倭国内の皇統断絶などの事件の為に終わってしまっている。

しばらくして倭国は中国からの文物の流入が朝鮮半島経由であることに飽きたらず、遣隋使・遣唐使を通じて直接中国の文物を取得することを心がけた。これはある意味で朝鮮半島の存在に対する挑戦と言える。