「平清盛」-史実はこうだ27-富士川の戦い関係2012/12/03 17:10

「戦い」とか「合戦」と言っているが実際は「対陣」である。まともな戦は行われていない。

まず源氏側であるが、武田氏と頼朝軍の連合軍と見たほうがよいとの説がある。当時の状況から見てこの方が妥当であろう。その後頼朝の勢力が増し、武田氏は御家人の位置に成り下がるのである。

頼朝の方から武田氏に使者を送ったというので両者は期を定めて富士川へ赴いたのであろう。

平家の方だがどうも源氏を過小評価していたキライがある。一門の中の武将は維盛と忠度の2人-平家物語による-のようであり、侍大将も少なかったであろう。後日の倶利伽羅の戦いに比べると少ないのである。この時は一門6人侍大将9人である。2人というのはもっと相手が弱い時に平家が採用している数である。

京都から出発した軍勢は、大番役で上京していた東国武士が主力のようだ。

途中で参加した軍勢は途中の諸国の武士を駆り立てたものである。

つまり平家譜代の家人はあまりいなかったようだ。これに対して源氏は先祖からの家人と称する武士が多かった。

対陣すると東国武士達は、脱走して頼朝に帰参するのが続出した。つまり敵を強化するためにわざわざ京都から連れて行ったようなものである。

源氏が強力なことを見てその他の武士も脱走するのが多かったようだ。遠江などは戦後無傷で源氏に勢力下になったのである。

平氏は戦わずに退却した。当時の資料の中には「水鳥の羽音」の記述のないのもあり、これは創作との説もある。

戦後の維盛の処遇もおかしい。何と直後に昇進しているのである。更に倶利伽羅の戦いでは北陸遠征軍の主将になっている。清盛に怒られたようだが、結局は処罰されていない。