「平清盛」-史実はこうだ31-高倉天皇2012/12/18 16:54

当時の文献-平家物語にしてもそうだ-で高倉の宮」という人が出てくる。これは以仁王のことである。紛らわしいが注意しないと物語が理解できないのだ。高倉天皇は「憲仁親王」「(皇)太子」「主上」「新院」とその地位によって異なるがこのように表現され、立太子以後は名前が出てこないのである。

天皇は20才で崩御されているが、なんと4人の皇子と3人の皇女の父であられる。正妻の中宮建礼門院(平の徳子)の子供は安徳天皇だけである。

これから見ると中宮は余り寵愛を受けていなかったようだ。平家物語にも帝の恋の物語が2段も扱われている。

帝位に就かれたのは清盛が大病になり生死の間をさまよった1168年であり、譲位したのは頼朝挙兵の1180年である。

譲位したのは院政を取るためである。清盛が後白河法皇の院政を止めされるために実行したのである。当時は院政の主が治世の君として権力を持っていたので、院政の主を変えようと清盛がたくらんだのである。

譲位の後の参詣に厳島神社を清盛が強引に推進した。これは寺社勢力の反発を受け、反平家運動を加速するのである。

天皇は院政を初めて間もなく病に臥、翌年崩御された。清盛の目論見は完全に崩れ、その上清盛自身もまもなく死ぬのである。