「平清盛」-史実はこうだ32-平頼盛-生き残った平家の名門2012/12/20 16:51

一般に平家は壇ノ浦で滅びたと言われているが、それは実は誤りである。平家一門の中でも錚々たる血統が鎌倉時代を生き抜いている。それは頼盛一家である。

頼盛は忠盛の正室池の禅尼の子である。保元物語では、清盛に次ぐ平家のNo2として記録され、平治物語では義朝の本隊と渡り合った大手の大将として描かれている。話題性のあるのは重盛だが、愚管抄に依れば実戦では「大将軍の戦い」をした武将と讃えられている。平家興隆に力のあった武将である。政治家としても優れていた。

母の関係で清盛とは別のルートで院政に関与することが出来た。また、清盛からでなく独自の所領をえている。

清盛が宗盛を後継者にするには煙たい存在であったことは間違いなく、武功や太宰府長官などの実積の割には出世が遅かった。

平家内部での実力があるので一度は清盛と武力衝突の噂を立てられたほどである。

最終的には清盛に「武士を捨てる」と制約して怒りを静めている。この為源平合戦では戦闘に参加していない。

一方頼朝から命の恩人の池の禅尼の子というので平家の中で別扱いをされている。彼は部下に頼盛の軍とは交戦するなと命令しているのだ。

義仲が京都に迫った時、宗盛から強要されて出陣したが、宗盛が頼盛に一言の連絡もなしに京都を逃げ出したので、平家一門と同行せず、京都に留まった。

その後頼朝に会いに鎌倉に行き多大の歓待を受けている。彼の所領だけは安堵され、他の平家一門のように没収されることはなかった。

公家となった子孫は衰えたが、鎌倉の御家人となった子孫は生きながらえたのである。子孫は「平」でなく「池」を名字とした。