無荒史談162-日本の戦-関ヶ原2009/01/15 19:47

秀吉の遺児の秀頼は幼少であり、ワンマンであった父の事業を受け継ぐ力などなかった。成人後も自分だけでの意志決定はしなかったようだ。当然豊臣政権の名の下に家臣の主導権争いが始まる。武力、経済力に秀でた家康が主導権を握ろうとすればこれに反発する石田三成一派と衝突する。ところが秀吉子飼いの武将達は三成と極めて仲が悪かった。彼らは家康と行動を共にする道を選ぶのである。

皮肉なことに家康に与した諸将が秀吉と戦塵をともにしていたのに対し、三成に与した諸将は秀吉に後で臣属したいわば外様であった。しかも家康からの切り崩し工作もかなりあり、それは成功したのである。

石田三成は軍事面で全軍を統率できなかった。一部の軍は善戦したが、名目上の主将を出した毛利軍はついに参戦せず、一族である小早川軍の裏切りで勝負は決した。また、有力武将である島津軍は戦の大勢が決するまで参戦せず、最後の敵中突破という荒技で戦場を去るのである。

戦後の処置は峻烈であった。西軍群諸将の領地はあるいは没収あるいは大幅削減され、徳川氏に反逆できそうな大名はいなくなった。

後は反徳川の象徴となりうる豊臣氏を滅ぼすだけである。大坂の陣では、一人の大名も豊臣氏側に参加しなかった。いや、徳川氏の下に参戦しなければ自己の地位が危なかったのである。