無荒史談21-百人一首の摂政-藤原忠通(中)2007/12/05 20:13

忠通の弟に頼長という人がいる。彼は、学識は人に優れていた。しかし、人格に於いて欠けるところがあった。人をやりこめるのが徹底しており、悪左府(手に負えない左大臣)という異名を取っている。但し、文学的な才能は全く欠けていたようだ。

忠通の父忠実は、子の頼長を溺愛した。そして忠通に迫って関白を譲るように伝えた。ところが忠通は父の願いを握りつぶした。その理由を鳥羽法皇から聞かれた時、次のように答えている。

頼長はこのような欠陥があり、彼に政権を任すと世間に動乱が起こる。だから彼に政権をまかせられない。「父に考ならんとすれば君に不忠となり、君に忠ならんとすれば父に不幸となる」有名な平重盛の言と同じであるが、忠通の方が前である。

忠実はこのことを知ってかんかんに怒った。忠通の家長の権限である家宝をを武士(源為義の子頼賢)使って取り上げた。また、頼長を関白と同等の権限である内覧とした。

しばらくして鳥羽法皇は頼長の実力が忠通の言った通りであることを悟り、疎んずるようになった。崇徳天皇が譲位し、近衛天皇が即位した際、慣例では全ての高官は辞表を提出し、「天皇これを許さず」で再任されるのであるが、頼長だけは再任されなかった。 (これには例外がある。高齢等で引退する場合は、再任されず人事異動がある。)

近衛天皇が子供がないまま崩御されたので、次の天皇を誰にするかが問題となった。この時、鳥羽法皇は忠通のみと相談し、後白河天皇を即位させるこことした。この為、崇徳上皇は自分が院政をするという道を絶たれることとなった。

この頃、源氏の本家でも内紛が起きた。この内容は明らかにされていないが、当時は常識であったらしい。為義と長男の義朝との間が険悪になった。あるいは、義朝と次の弟である義賢、頼賢とが険悪な仲となり、義賢は頼朝の長男義平に討たれ、頼賢は義朝に朝敵の名目で追いかけられている。この二人を為義は愛していた。

このようにして、保元の乱の対立図式である皇室、摂関家、源氏の関係が出来上がっていく。