無荒史談27-百人一首の高僧-前大僧正慈円(二)2007/12/24 18:18

慈円のマルチタレントぶりを前回の話から説明する。

1.護持僧として一流である。

後鳥羽上皇の護持僧である。占うのは天体現象に伴う迷信が多い。呪文を唱えても効力があるとは考えられないが。それでも信頼されている。どうやら当たらない時の言い訳に関して噂を流す人物が可成りいたようだ。例えば、藤原良経が死んだ時の異変では、この時の天体現象は後鳥羽上皇が標的であったが、慈円の祈りで後鳥羽上皇が救われ、代わりに摂政の良経が犠牲になったというものがある。

2.天台座主に4回もなった宗教界の指導者

第1回は、実力のなせる技である。38才という年齢は摂関家の出と言うことを加味しても若い年齢での任命である。この時は朝廷の政争の為に辞退させられたようだ。しかし、まもなく返り咲いている。これが第2回目であるが、兄兼実の九條家が政権を取るに及んで、安心したのか辞職している。

第3回目と第4回目は、後鳥羽上皇の倒幕姿勢が絡んである。慈円は倒幕に反対であったが、後鳥羽上皇は比叡山の協力を当てにする為に慈円を任命したと考えられる。しかし、慈円は後継者を選定して1年後に辞職した。ところがこの後継者が8ヶ月で死んだので、4度目の座主となり後継者を作り直した。この時も1年で辞職している。

3.後鳥羽上皇の政策ブレーン

特に邪教対策で功績を挙げているようだ。しかし、後には後鳥羽上皇の倒幕の計画に批判的となり、政策に関与することはなくなった。

4.仏教界を含め神道、儒教、國史など多くの学問に通ずる。

これは愚管抄に述べており、自分の学識を自慢している。また、当時の僧侶が勉強しないことについて不満であった。愚管抄を見ると彼が博学であったことがよくわかる。

5.愚管抄などに示す歴史哲学者

慈円の歴史解釈は、当時としてもユニークであるだけでなく、現在でも光を失わないものと言える。この部分は長くなるので別に項を改めて述べる。

6.世間から見ると一流の歌詠みである。

新古今に91首をはじめ、勅撰集に採録された数は総計254首であり、歴代作者の中でベストテンにはいる。現存する作品は5000首を超える多作の歌人である。最近は愚管抄などの歴史哲学者としての評価が高いが、古くは歌人としての方が評判は高かった。

誰にでも一つは癖のあるものぞ我には許せ敷島の道

慈円が和歌をあまりに多数作ることに嫌みを言われた時の即答である。

これで摂関家の出身であるから型破りのスケールである。たとえれば、父兄は総理、自身は大学総長、流行歌作者として絶大なフアンを持つ、神秘的な呪文は大衆受けする、食客は綺羅星のごとく多彩に渉る。その発言は政治をも左右しかねない。このような人材は日本史上数少ない。