無荒史談40-逆臣の尊皇5-北条義時 ― 2008/01/29 19:05
北畠親房の「神皇正統記」には源頼朝と北条泰時が政治の立て直しをし、世の中を安定させた功労者としている。又この2人が居なかったら世の中はどうなっていたかも解らないとさえ言っている。実はこの2人の間にあって重要なつなぎ役をしているのが北条義時である。これは清の時代の康煕・乾隆の時代の間の雍正帝の時代ともいえるのではないか。
彼は頼朝亡き後の幕府にあって重鎮としての役割をしている。武家政治の確立に腐心しているのである。多くの有力武将を粛清したり、将軍頼家を廃したりしている。更に幕府の権威を乱すものとして実の父義政を引退に追い込んでいる。非情な行動を取っている様に見えるが武家政治の確立の為に心身を砕いていたのである。
この結果、非情に見える行動にも拘わらず、承久の乱では関東在住の武士に反対者は一人もなく、彼の指示に対して一致して行動しているのである。当時動員可能な限界ともいえる19万の大軍が即座に集まったのである。-参考までに日清戦争の時の日本軍は24万である。如何に多くの兵力を糾合できたかが解る-。後鳥羽上皇はこの事実を把握できず、安易に倒幕の兵を挙げた。この手法は同時代の高僧慈円が憂えたものであり、後に北畠親房からも非難される結果ともなった。-前回の頼朝の項で述べたが、東国武士は再三にわたり賊軍となり、実力でそれを解消させた例がある。朝敵となってもそんなに慌てなかったのではないか-
義時は、当時聡明の噂の高かった後鳥羽上皇の弟入道行助法親王に院政をゆだねる形でその子後堀河天皇を即位させている。後堀河天皇の後子孫が絶えた時、北条泰時は、承久の乱に反対の立場であった後鳥羽天皇の皇子土御門天皇の皇子である後嵯峨天皇を即位させているのである。
歴代の北条氏は、高位高官を望まず、実権は握ったものの皇室を粗略にしていない。一方皇室も鎌倉政権を頼りにしている。これは義時に始まったといえる。
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