無荒史談71-院政の上皇-後三条天皇 ― 2008/04/16 19:22
院政としての話題がないので、天皇と記している。しかし、平安末から鎌倉初めの院政時代の成立に重要な役割を果たされた方である。
長い間摂政の孫か甥が皇位にあったが、近親結婚の為か子供が出来なくなり、天皇に該当する摂関出の皇族がいなくなった。そこで後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は道長のひ孫(父方母方とも)であったが、摂政・関白とは直接の繋がりがなかった。この為に心身に気を配られ、即位前には勉学に努められ、又、政治の実態にも目を配られ、当代一流の知識人でもあった。
後三条天皇を最初に悩ましたのは経済問題であろう。何しろ摂関家の出でないので収入をそちらに依存することが出来なかったのである。そのためか、天皇の事績としてまず荘園の整理が挙げられている。つまり非課税の荘園が際限なく増える傾向にあったのを改め、一定の基準を満たさない荘園に課税しようとするものである。これによって皇室の収入を増やすという試みであった。
そのほかにもいろいろな革新をされている。度量衡も統一を図り、自ら枡をチェックされたことが記録に残っている。
後三条天皇の時代、摂関家には人材がいなくなった。道長の死後、その子の頼道も教通も実力不足であり、後三条天皇の革新政策に対抗する力はなかった。
最後の仕上げが、摂関の権力を取り上げて名目のものとし、上皇が権力を握るという院政であった。そのつもりで治世僅か4年、白河天皇に譲位されたが、1年足らずで崩御された為院政の開始者とはされなくなった。
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