無荒史談12-百人一首の帝-崇徳院(上) ― 2007/11/16 18:42
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に逢わんとぞ思う
この御製はラブロマンスの古典落語「崇徳院」に取り入れられ、庶民に親しまれたものであった。しかし、崇徳院の生涯は残酷なものであった。
1.生涯引きずった出生の謎
話は院政初期の白河法皇にさかのぼる。白河法皇は好色家として名高い。そして手を付けた多くの女性を飽きたら臣下に押しつけた。これを俗に「お古を賜る」という。
お古の一人に待賢門院という女性がいた。これを事もあろうに自分の孫の鳥羽天皇に押しつけた。待賢門院は崇徳天皇の生母である。
鳥羽天皇は在位の間は白河法皇の院政下で親政はしていない。しかも、待賢門院が生んだ崇徳天皇に譲位を迫られている。
白河法皇の崩御後は鳥羽上皇が当然のごとく院政を開始した。この頃、鳥羽上皇は崇徳天皇を自分の子ではなく白河法皇の子と信じた行動を取った。崇徳天皇を「叔父子」と称した。 つまり名目上は自分の子であるが、本当は祖父の子つまり叔父であるということである。鳥羽上皇は死ぬまでこの態度を取り、崇徳天皇に冷たく当たっている。
鳥羽上皇は崇徳天皇に強制して譲位後に迎えた后の子近衛天皇に譲位させた。ところが近衛天皇は病弱で子供が出来ないまま崩御した。
鳥羽法皇は、次の天皇として崇徳天皇の同母弟(待賢門院の子)後白河天皇を即位させ、崇徳天皇の子孫が皇位に就くことのないようにした。
鳥羽法皇はまもなく崩御したが、死の床でも崇徳天皇に会おうとはしなかった。
話が長くなるので次のブログに書く。
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