無荒史談13-百人一首の帝-崇徳院(下)2007/11/17 20:16

(上)で述べた経過をたどって崇徳院は自分の子孫が皇位を継承する道を絶たれたのである。

2.怨霊となった崇徳院

この時摂政関白の家である藤原氏の本家でも身内の争いが起きた。前関白である藤原忠実は、末子の頼長を愛し、時の関白である長男の忠通に迫って関白の座を譲らせようとしたが、忠通はこの要請を握りつぶした。その理由は頼長の欠点を見抜いた為、これを公にすることは父の意向に反すると思ったからである。

忠実は、武士を使ってに藤原氏の家長の権限を忠通から取り上げて頼長に与え、関白に準ずる権限を頼長に与えた。

このもくろみは忠通が恐れたように失敗し、頼長は鳥羽法からも疎まれ、近衛天皇の即位の時、重臣は一旦辞表を提出し「天皇これを許さず」として再任される慣例のところ、頼長だけは慣例を破り再任されなかった。

さらに、後白河天皇の即位という重大問題は、鳥羽法皇と忠通の間で決定される始末となった。頼長は失脚したのである。

この頼長が崇徳院に接近し、クーデターを試みた。これが保元の乱である。

保元の乱は、鳥羽法皇の人脈を引き継いだ後白河天皇が、源義朝、平清盛、源頼政等の有力武将全てを味方に付け、圧倒的な勝利を収め、頼長は矢に当たり戦死した。

戦後の処理で崇徳院は讃岐(香川県)へ配流の身となり、血書して都への帰還を望んだが認められず、配所で崩御された。

崇徳院は太平記には、日本中の怨霊、悪霊を統率する大魔王になっている姿が描かれている。その怨念は恐れられたのである。