無荒史談14-百人一首の帝-後鳥羽院(上)2007/11/20 20:07

人もをし人も恨めしあじきなく世を思う故にもの思う身は

戦前の歴史教科書では悲劇の名君として扱われたが、鎌倉時代の文献から見ると身勝手な君主であったようだ。-どちらかといえば暗君か-

1.多芸多才の帝として

後鳥羽院は三種の神器がない即位である。このことは後に北朝の帝が即位される時に参考にされた。木曽義仲に追われた平家は安徳天皇と三種の神器を伴って西に逃げた。後白河法皇は、平家を嫌っていたりで京都にも天皇を立てようと思い、僅か4才の後鳥羽天皇を即位させたのである。

13歳の時、後白河法皇崩御、後鳥羽天皇の親政が始まった。つまり天皇はたいした帝王学を学ぶことなしに最高権力者になったのである。また、院政時代の常として、19才で土御門天皇に譲位し、院政を始めている。

多芸多才であり、和歌の達人として知られ、日本刀を有名刀匠の指導のもとに自ら作るなど、各方面に才能を発揮している。

しかし、女性関係は当時の風潮からすれば異常である。多くの貴族出身の后が居たにもかかわらず、「あやしのしず」つまり下層階級の女性に興味を持っておられた。承久の乱で有名な伊賀の方もその一人である。

自分と意見を異にする臣下を遠ざけてイエスマンを中心にした政治をしている。これが後に政治生命を絶たれる遠因となった。摂関家などは疎外されている。和歌の道で後鳥羽上皇と親しかった護持僧でもある慈円は自ら身を引いている。

土御門天皇は後鳥羽上皇の長男であるが、いろいろと諫言している。この為後鳥羽上皇は、自分の考えに共鳴している順徳天皇に譲位させるのに、たまたま出現した彗星を口実にあげて強制している。(どうやら土御門天皇は時勢を見る目が父の後鳥羽上皇よりも優れていたようだ-先のことであるが土御門天皇の御子孫が皇位を継ぐことになる-今上陛下もその血統に属する)

後鳥羽上皇は、その政治のひずみが昂じて、承久の乱を引き起こすこととなるが、この部分は(下)に述べる。